今治市紹介

12019 / Pixabay

今治市は県の東部、瀬戸内海に向かって突き出した高縄半島の先にできた港町で、タオルと造船が盛んな臨海工業都市です。特にタオルは全国一の生産高(60%以上)を誇り、造船も近世の帆船の時代から盛んに建造され、地元の海運業と結びついて、中小型船建造では国内トップシェアを誇っています。

さらに平成11年には、しまなみ海道(西瀬戸自動車道)が開通し、中四国流通の拠点となっています。

 古代、中世の今治

大化の改新(645年)で初めて全国規模の大和政権が成立し、飛鳥の都から伊予へは大和、和歌山から舟で淡路島を経て徳島へ渡り、讃岐をへて瀬戸内沿いに今治へいたる南海道がつくられました。

このとき、高縄山が障碍となって官道は今治が終点となり、ここに国府(現在の県庁)が置かれました。また奈良時代にはこの地に国分寺も建てられ、今治が四国における行政・文化の中心であったことが伺えます。

中世には今治の島々を拠点として村上海賊が台頭し、今治は瀬戸内の海上交通の要衝として発展を遂げましたが、徳川政権の発足とともに水軍は消滅してしまいました。

 近世以降の今治

関ヶ原の戦いの後、藤堂高虎が二十万石の領主として今治の地に入りました。この地を統治するにあたり、「今からこの地を治める」という意気から、それまでの「今張」を「今治」に改めたといわれています。

高虎は瀬戸内の海運を掌握するため城を海辺城としましたが、ほどなく伊勢・津に移封されます。その後は徳川御三家に次ぐ家門の久松家が今治に入り、明治2年の版籍奉還まで250年にわたり、平穏な藩政時代が続きました。

明治以後の今治は経済の面で飛躍的な発展を遂げるようになります。四国では他に先駆けて港湾の整備が進み、ネルやタオルの巨大産地になると同時に、港からは関西方面に向かって、物流が盛んになっていきました。

そして大正9年(1920)には四国で六番目の都市として今治市となり、今治を「いまはる」、「いまはり」でなく「いまばり」と呼称することが市議会で決まりました。

 今治市の市街整備

もともと江戸時代の城下町は、今治の海岸線にそって平行に、今治城辰之口より本町へ伸びていました。さらにこのラインと平行に、城下町の外郭を形づくるように別宮大山祇神社から旭町を通る西条街道がつくられました。

ところで、大正13年、国鉄今治駅が開業するのに合わせ、駅と港をつなぐ10間幅の道路(広小路)が計画されましたが、それはちょうど平行に走る2本の道路と直角に交わり、両者を結びつけるように造られました。

昭和20年、8月の空襲で、他の都市と同様、今治の市街地もほとんど焼け野原になりました。その後、市街地の再生が始まると同時に、広小路の道路幅は思い切って従来の2倍に広げられました。当時としては破格の広さに、復員兵が飛行場建設と見間違えたというエピソードが残っています。

 海運業

古来、今治は瀬戸内交通の要衝であると同時に、来島海峡や、船折瀬戸などの難所のため、遭難事故が続出していました。このため今治は風待ちの港として利用されることが多く、自然と造船業が発達していきました。

明治以降、今治港の取扱貨物は大半が綿業関連でしたが、大型船が接岸できないため、港湾整備が急がれていました。そこで大正10年、今治港が県内初の重要港湾に指定されたのを機に、四国初の開港場となり、15年をかけて築港整備が完了しました。

戦後は、繊維産業の低迷と、中国貿易の中断のため港の振興は滞っていましたが、昭和27年、港の安全宣言が告示されて、やっともとの姿に復帰しました。 その後は紡績、タオルなど繊維、造船業の中継港として、さらに瀬戸内海国立公園の観光港として、港の整備拡充が進展しました。

そして、平成7年には3万トン級の船が接岸できるようになり、翌年には、四国初のコンテナ用ガントリー・クレーンが設置され、名実ともに瀬戸内の物流拠点となりました。

こうして現在、今治港は2分間に1隻、船が出・入港するという活況を呈しています。また海運業が盛んになると同時に、船舶を建造する造船業も興隆し、国内有数の造船団地が出現しました。

 今治タオル

江戸時代より綿栽培が盛んだった今治は、江戸時代の後期に藩が生産を督励したこともあり、綿織物の一大産地として知られていました。しかし、明治時代になるとより安価な木綿製品に押され、伊予木綿は徐々に衰退していきました。

明治19年(1887)矢野七三郎が、伊予木綿に替わる織物として「綿ネル」(片面だけ毛羽立ちさせた綿織物)の製造をはじめ、これにより今治の繊維産業は再び活気を取り戻しました。

その後、明治43年に綿ネル業者・阿部平助が、大阪で見た「西洋手拭い」に着目し、綿ネル機を改造してタオルづくりを始めましたが、高価なため買い手がつかず、軌道には乗りませんでした。しかし大正に入り技術革新が進むと、装飾的なジャカード織りタオルが生産されるようになりました。

その後は日本有数のタオル産地として、比較的順調な発展を遂げていましたが、平成のバブル崩壊を機に、廉価な中国産タオルに市場を奪われ、今治のタオル業界は瀕死の状態となりました。

こうして倒産の相次ぐ中、今治タオルは運よく、中小企業庁のブランド育成支援事業に選ばれたのです。この危機的状況のもと、市民一体となった「今治タオルプロジェクト」がスタートしました。そして20年にわたる地道な努力の結果、「今治タオル」は名実ともに日本のブランドとして認められるようになったのです。

 桜井漆器

今治市桜井は江戸時代後期に入り、幕府直轄の天領となりました。このため、この地でとれた年貢米は、桜井の浜から帆船に乗って、大阪へと運ばれました。その廻船業者が大阪へ行った帰りに紀州(和歌山)黒江の漆器などを仕入れて帰ったそうです。

ところが、その漆器が寺社や信者たちに好評だったため、地元でも造ってみようということになりました。こうして天保年間(1830年頃)、漆や木地材の産地でもない桜井の地で、漆器づくりが始まったのです。

当時の行商人は、春、九州の唐津、伊万里の陶器をもって関西へ行商し、秋には関西や桜井の漆器を九州の農村へ行商するという、混合行商をしていました。行商人にとってみれば、陶器よりも軽い漆器のほうが持ち運びやすく、しかもよく売れるため、漆器のみの行商へと移行していったようです。

とくに桜井漆器は安いうえに持ちが良いため、紀州の漆器より売れ行きがよかったといいます。我が国で初めて月賦販売(分割払い)を始めたのは、この桜井の行商人です。

 大山祇神社(おおやまづみ)

その昔、神武東征にあたり、天照大神の兄、大山積大神の子孫が、瀬戸内の要衡である御島(大三島)を神地に定めたといわれています。

推古2年(594年)、大和朝廷は大三島に大山祇神社を創建し、これを全国に一万ある山祇神社、三島神社の総本社として、「日本総鎮守」の号を下賜しました。こうして大山祇神社は、山、海の神を祀る伊予国の一之宮(最高の社格)として、歴代朝廷から尊崇を集めました。

源平合戦のころには、戦いの神も祀るようになったため、多くの武士が武運長久を祈って武具を奉納しました。その結果、国宝・重要文化財の指定をうけている甲冑の4割が、全国からこの社に奉納されることとなりました。現在宝物館には、頼朝や義経の奉納した鎧、弁慶の薙刀などの逸品が陳列されています。

また戦国時代には河野、村上水軍の保護下にあったことから、来島村上氏や河野氏は大山祗神社の神紋「折敷に三文字」を自家の家紋にしていました。

太平洋戦争のあと、GHQは大山祇神社にある刀剣類を危険視し、国宝以外を処分するよう通達しましたが、神社側はしばらく土中に秘匿し、消失するのを防いだといわれています。

大島石

地下のマグマが100万年かけて冷却してできたのが花崗岩で、海辺の白砂はこの花崗岩の風化したものです。瀬戸内海の島々の岩石は花崗岩からなるものが多く、その典型が伊予の大島石です。花崗岩はその昔、神戸市御影地区で採れたところから、しばしば御影石とも呼ばれます。

大島石は石目が細やかで、青味を含んだ石肌が特徴です。それは雲母、石英、長石の微妙な配合によってできるもので、石が固く、水分を通さないため、堅牢で、光沢を失わない長所があります。

このため、墓石のほか、建築用材、記念碑、護岸工事に多用されています。

大島石は明治以来、西日本を中心に絶大な人気を誇り、道後温泉本館をはじめ赤坂離宮、日本銀行本店、大阪心斎橋などへ納入されています。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする