宇和島市紹介

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「宇和島は世界有数の美しい町だと思う。四方に山があって、オーストリアのインスブルックを思わせる。段々畑になっている宇和島の山手はさらに美しく、そこから海も見える。港はフランス南部のサン・ジアンド・ルースに劣らず、絵のように美しい。」

宇和島の魅力はこのドナルド・キーン氏(日本文化研究の第1人者)の賛辞に要約されているといっていいでしょう。

宇和島市は愛媛県の南部に位置する都市で、人口は9万、真珠や魚の養殖が盛んな城下町です。西は宇和海に面し、入り江と半島の交錯したリアス式海岸が続き、東の鬼ヶ城連峰は海まで迫って、じつに70%を森林が占め、田畑、宅地は20%という窮屈さです。

平地は全国的にも温暖な地域ですが、冬には北西の季節風が吹いて、山間部では積雪がみられるという変化に富んだ土地柄です。

宇和島市の歴史

宇和島の地は、平安時代に藤原純友の乱を鎮圧した警固使・橘遠保が伊予国宇和郡を与えられたのが始まりで、彼はここに砦を構えたといいます。

鎌倉時代になると、実力派公家・西園寺公経がゴリ押しでこの地を奪い、以後西園寺一族が宇和地方の豪族を傘下におさめ、室町期には守護大名的な存在となりました。

しかし戦国時代末期、土佐の長宗我部元親に敗れ、ついで秀吉の四国攻めで、宇和島の地は小早川、戸田と相次いで城主が変わりましたが、文禄4年(1595年)、藤堂高虎が伊予国板島(現在の宇和島市)7万石で入城し、この地に宇和島城を築城しました。

高虎は徳川政権下で順調に出世を遂げ、慶長13年(1608年)、伊勢津藩22万石の藩主に移封されました。

その6年後、幕府直轄領となっていたこの地に、伊達政宗の長子秀宗が大坂冬の陣の功を認められ、領主として入城しました。初代藩主伊達秀宗は板嶋を宇和島と名を改め、以来、伊達家が256年にわたって、平穏無事にこの地を治めました。

幕末、宇和島藩は、幕長戦争に派兵はするものの参戦はせず、戊辰戦争を通じ中立を貫きました。このため、幕末の雄藩でありながら、維新後、明治政府から取り立てられることはありませんでした。

しかし、藩主宗城の判断で、宇和島藩から維新殉難者をひとりも出さなかったことは、後世評価に値すると言われています。

大正10年8月、宇和島市が誕生したあとは、徐々に周辺地区の合併が進み、平成17年8月には、人口9万を擁する現在の宇和島市が誕生しました。

宇和島城の歴史

慶長6年(1601年)の藤堂高虎創建時には、城郭の西側半分が海に面しており、標高74mの山頂部に本丸を構え、城郭は五角形、水堀に海水を引き入れた海城(うみじろ)でした。
その後石垣や天守、矢倉は、伊達家により修築されましたが、基本的な城構えは高虎時代のものを踏襲していました。

城造りの名人といわれた高虎は、築城にあたり、五角形の縄張りというユニークな設計を思いつきました。真上から見ないと四角形にしか見えないというこのアイデアは、「空角(あきかく)の経始(なわ)」と呼ばれ、全国どこの城にも見られない珍しいものでした。

高虎の発想はこうです。城が攻められる場合、相手は正方形の縄張りと信じて向かってくる。そこでこれを五角形にすれば、一辺が空角となって死角になるから、相手の攻撃をかわすと同時に、攻撃に転じる突破口になりうる。さらには、物資の搬入に都合がよく、落ちのびるときには抜け道にもなりうるというのです。

このほかにも高虎は、本丸天守より原生林の中を抜ける間道を数本造り、西海岸の隠し水軍の基地に通じるようにしていたといいます。

宇和島城は高虎の秘術をつくした城であったことが分かります。

その後、伊達2代藩主宗利の時、天守を中心に城郭の大修理が行われ(1671年)、3重3階総塗籠式・層塔型に再建したものが現在の天守となっています。

残念ながら、五角形の堀は明治期に埋め立てられ、遺構の多くは明治後期より徐々に解体されてしまいました。さらに国宝の大手門も太平洋戦争の戦火で消失してしまいましたが、戦後、本丸・二之丸を含む城郭は復興を遂げ、「城山公園」として市民の憩いの場となっています。

現在では、本丸の天守(重要文化財)や、搦手口(城の裏口)にある上り立ち門(のぼりたちもん)、山里倉庫(城山郷土館)、藩家老・桑折氏武家長屋門に、過去の威光を偲ぶことができます。

初代藩主 伊達秀宗

伊達政宗の庶子(正室以外の女性の子)であった秀宗は、豊臣秀吉の人質として伏見城で育ち、元服後は秀吉の一字をもらい秀宗と名乗りました。また、家康の天下になってからは、徳川氏の人質として江戸に居住しました。

伊達政宗の正室に長男(後の伊達忠宗)が出生したため、秀宗は家康の命で井伊直政の娘と結婚し、以後、仙台でなく徳川の一員として生きていくことになります。秀宗は大坂冬の陣に父とともに参陣し、初陣を飾った功で、家康から伊予宇和島10万石を与えられます。

政宗は秀宗の出発にあたり、伊達の家中から57騎馬団を選んで与え、一家郎党あわせて1200名の大移動となりました。秀宗たちが宇和島に赴任してみると、幕末より領主が何度も入れ替わったため、領内は疲弊しきっており、藩は早くから財政難に見舞われました。

秀宗は政宗から6万両を借りて財政難に当たりましたが、その返済は初期の宇和島藩にとって大きな負担となりました。

政宗は財政通の山家公頼(やんべ きんより)(通称清兵衛)を筆頭家老にして、秀宗を支えるよう申しつけましたが、秀宗には事あるごとに口出しする山家が疎ましく、かわりに桜田元親(通称玄蕃)を重用し、清兵衛には謹慎を申し付けます。

元和6年(1620年)、大坂城の修復普請にあたり、意見の対立した桜田元親が深夜突然山家邸を襲撃し、清兵衛をはじめ家族の多くを殺害するという事件がおこります。

秀宗の関与があったか否かは不明ですが、秀宗はこの事件を幕府にも政宗にも伏せていたため、激怒した父政宗によって勘当され、あわや宇和島藩取り潰しという危機を招きます。その後、老中土井利勝のとりなしで、なんとか和解が成立し、勘当は解かれました。

秀宗は政宗に向かって、長男に生まれながら仙台藩の城主になれなかった悔しさや、長くつらい人質生活で政宗を恨んでいたことを赤裸々に吐露したのです。思いもかけず息子の鬱屈した思いを告げられた政宗は、自分にも非があったことを認め、以後親子関係はかつてなく緊密になったといいます。

その後、秀宗は藩政に尽力していましたが、寛永14年(1637年)島原の乱に派兵したころから、脳出血のため病床につくようになります。

かわって次男の宗時が藩主につく予定でしたが、39歳で早世。このため秀宗は、新たに世子となった宗利(むねとし)に家督を譲り、五男の宗純(むねずみ)に伊予吉田藩を分知しました。

以後、宇和島藩は7万石、吉田藩は3万石となり、明治維新までつづくことになります。宗利の2代藩主就任を見届けたのち、秀宗は68歳で長寿を全うしました。

和霊神社

元和6年(1620年)6月、伊達政宗の腹心・山家公頼(通称清兵衛)が、宇和島藩内の政争に巻き込まれ、政敵の桜田元親(通称玄蕃)に襲撃され、家族の多くが惨殺されました。

ところが約10年後、正眼院本堂の梁が落下し、桜田玄蕃が圧死する事故がおこります。さらに清兵衛の政敵だった者たちが、海難事故や落雷に襲われ落命する事故が続きました。

不運はこれにとどまらず、秀宗自身が中風となり、長男、次男、六男が早世、飢饉や地震が相次いだため、すべて清兵衛の祟りだという風評がもっぱらとなりました。

そこで秀宗は京都吉田家の奉幣使を招いて神祗勘請を行い、「山頼和霊神社」を創建しました。さらに80年後には5代藩主伊達村候によって、清兵衛邸跡に今日の和霊神社を創建し、清兵衛の霊を慰めました。

以後、宇和島では、山家清兵衛は「和霊様」と呼ばれ、市民に親しまれています。

宇和島伊達家の藩主たち

江戸時代を通じ、歴代藩主は総じて財政難に頭を悩ませながらも、果敢に対策に取り組んでいることが分かります。

初代秀宗の跡を継いだ2代藩主・宗利(むねとし)は、検地制度や村役人制度を確立し、元禄元年(1688年)には紙の専売も実施しました。しかし、浜屋敷の造営や宇和島城の大改修に費用がかさみ、財政難から抜け出すことはできませんでした。

3代藩主宗贇(むねよし)は宇和島藩の10万石としての体面を保つために、伊予吉田藩に分与した3万石分を補うのに苦労しました。このため、新田開発を奨励するなどしましたが、藩財政は好転せず、倹約令や商人からの借金、家臣団の大減封をせざるを得ませんでした。

追い打ちをかけるように、宝永4年(1707年)には南海トラフ大地震(宝永の大地震)で宇和島城の倒壊という悲運に遭遇します。

宝永の大地震からやっと立ち直った1732年、後を継いだ4代藩主・村年に、今度は享保の大飢饉が襲います。村年は、意を決して藩政改革に取り組もうとした矢先、31歳で急死してしまいます。

そこで後を継いだのが5代藩主・村候(むらとき)です。村候は享保の大飢饉からなんとか藩政を立て直そうと、窮民救済、倹約令を制定、軍制改革や風俗の撤廃、紙の専売制、藩校の創設と矢継ぎ早に藩政改革に乗り出します。そのおかげで、なんとか財政を持ち直すことができました。

しかしそれも束の間、今度は天明の大飢饉(1780年代)に遭遇し、再び財政が悪化します。村候にとっては誠に試練の連続で、気の毒なほどツキに見放されているように見えます。

こうして藩政の停滞するなか、6代藩主村寿(むらなが)が後を継ぎますが、部下による主導権争いのため、藩政は停滞します。そこで村寿は病気を理由に長男・宗紀へ家督を譲って隠居してしまいます。

後を継いだ七代藩主宗紀(むねただ)は、実に名君の誉高き人物でした。彼は大坂商人からの借金の無利息200年賦返還を断行し、ハゼ蝋の専売化、特産品(塩やスルメ)などの殖産振興とともに、藩内の徹底した倹約を実施しました。

また藩士を佐藤信淵(経済学者)のもとへ就学させたのち、融通会所を設立して物価の統制を図り、財政改革に成功したのでした。そして6万両の蓄財をしたあとを8代藩主宗城に譲り、江戸藩邸に隠居しました。

その後、宇和島に隠居所・潜淵館を建築し、その邸内に回遊式庭園を造成し、政宗のつくった漢詩の一節をとって天赦園(てんしゃえん)と名づけました。宗紀はその後も長命を保ち、明治22年、じつに98歳の天寿を全うしました。

8代藩主宗城の幕末における活躍は、郷土案内 > 記憶に残る伊予人幕末の四賢侯 伊達宗城(だてむねなり) をご参照ください。

かんきつ王国・愛媛の吉田町

吉田町は「愛媛みかん発祥の地」として知られています。寛政5年(1793年)、土佐から温州みかんの苗木がもたらされたのが最初です。

みかん栽培が盛んになったのは明治時代からで、現在愛媛県のみかん収穫量は和歌山県についで日本2位ですが、柑橘類全体(いよかん、ぽんかん、でこぽんなどを含む)での収穫量は日本一となっています。

みかん王国といわれる愛媛のなかでも、とりわけ美味で有名なのが、吉田町のみかんです。その秘密は吉田町の地理的条件にあるといわれます。

吉田町は年間を通して温暖で、収穫の秋に雨が少なく気候が安定しているのです。また太陽からの直射日光に加え、宇和海に反射した光が十分に降り注ぎ、日射量にも問題ありません。

さらに、海岸線に沿ったみかん山の急斜面は、水はけがよく、もともとこの地は海底から隆起してできているため、ミネラルが豊富で食物が育ちやすいのです。

これらの自然条件がそろったため、吉田町のみかんは格別味がよいといわれているのです。

ただ、吉田町にも悩みがあります。ひとつは台風銀座といわれるほど、毎年、台風の被害に遭いやすく、また、みかんは天候の影響を受けやすいため、出荷量が安定しないのです。

さらには、吉田町のみかん栽培に携わっているのは、60歳以上の高齢者が多いため、後継者問題も頭痛の種になっているのです。

日本農村百景 水荷浦(みずがうら)の段畑

宇和島の南、水荷浦の段畑(段々畑)はリアス式海岸の先端にあって、宇和海に突き出た岬にあります。

はるか宇和海を望む段畑の美しさは、平成19年、国の「重要文化的景観」の3例目に選出され、「日本農村百景」にも選ばれています。

水荷浦の地名は、海岸端にあって 水に乏しく、生活水を担って斜面を運んだところから来ているそうです。

高さ、幅とも1m前後の畑が石垣で区分けされ、斜面に沿うように山の頂まで開墾されています。この岬の急斜面に、整然と階段状に区分けされた段畑の景観は、眼前に広がる宇和海の美しさと相俟って、絶景というに相応しい美しさです。

段畑では明治時代、養蚕が盛んにおこなわれましたが、昭和に入り下火となり、サツマイモついでジャガイモ栽培がおこなわれました。この頃から男性は漁へ出て、老人と女性が畑仕事にあたるという生活形態が出来上がりました。

しかしそれにも陰りが見え始め、昭和30年代には真珠やハマチの養殖が盛んとなって、段畑は10分の1以下に縮小してしまいました。

平成に入ってからは、さらに段畑が減り続け、水荷浦でしか見られなくなってしまいました。

皮肉な話ですが、段畑が希少になればなるほど、その景観は評判を呼ぶようになり、今では県外からも年間2万人の人が訪れる人気の景勝地となりました。

海面養殖業(魚と真珠)に生きる宇和海

宇和島市の外海・宇和海は魚類の宝庫といわれ、江戸時代には西国一と評されたほどイワシ網漁が盛んでしたが、昭和30年代からは不漁に喘ぐようになり、一時漁業は崩壊の危機に陥りました。

そこで、イワシ網漁に代わって導入されたのが、マダイやハマチなどの養殖と、真珠および真珠母貝の養殖業です。

これによって、わずか四半世紀の間に、宇和海は日本一の海面養殖業産地といわれるまでになりました。

現在、養殖業のうち、マダイの生産量は全国の54%を占め第1位、ブリ類の生産量は全国の15%を占め第2位となっています。

ただ、全国的に漁獲量は毎年減少傾向にあり、1980年代から漁業生産額は減り続けており、愛媛県でも2014年には半減してしまいました。ただ、主として減っているのは漁船漁業のほうで、海面養殖業は甚大な影響をうけておりません。

一方、宇和海における真珠の養殖は、昭和10年に始まりましたが、冬季水温が高いこと、天然採苗が豊富にできたこともあって、順調に発展しました。

真珠養殖はアコヤ貝の稚貝を採苗し、母貝に育てる真珠母貝養殖と、母貝に核を入れ真珠を生産する真珠養殖に分けられます。

そのどちらにおいても、昭和61年以降、愛媛県は生産量日本一となっています。ちなみに、真珠の生産量は全国の4割、真珠母貝の生産量は全国の8割という高いシェアを誇っています。

しかし実はその間、バブル崩壊やアコヤ貝の大量へい死などにより、何度も危機に遭遇しているのです。そのたび、漁業担当者の創意工夫で困難を乗り切ってきました。

現在も、国際的な販売競争の渦中にいますが、ひとつには高価であった南洋珠が増産され、日本のアコヤ貝真珠と同価格帯となったこと、ひとつには低価格であった中国の淡水真珠が品質向上し大量生産されたことが、激戦の要因となっています。

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