21. 秋山真之の戦略

2001人は人生のある瞬間、想像を絶するほどの燃焼をすると、そのあと緊張の糸が切れ、燃え尽きたかのようにひっそりとした人生を送るような気がします。

明治37年、秋山真之は日露戦争における天王山、日本海海戦の作戦のすべてを任されていました。

作戦に失敗すれば日本はロシアの属国になり下がるという悲壮感の漂う中、ひとりで日本の運命を背負って立っていたことになります。

歴史のキーポイントを握った数少ない伊予人といえましょう。

国土防衛

古来、我が国は中国大陸の脅威を感じながら過ごしてきたとはいえ、実際には元寇の役以外、国土防衛に腐心した経験がありません。

ただ、大陸の東端部にあたる朝鮮半島は日本列島に向かって、鎌を振り上げた格好になっていて、明治維新以後、この半島の動向が我が国の懸案となっていました。

というのは、明治37年の当時、世界は帝国主義の謳歌する時代であり、欧米人の頭には、植民地政策は自分たちだけのものであり、非白人である日本人が仲間に参加するのは許しがたいという気分があったようです。

なかでも、当時のロシア皇帝ニコライ2世は、日本人を“黄色い猿”と呼んで嫌悪しており、その人種差別意識は日本人の想像をはるかに超えるものでした。

そのうえ、ロシアは積年の念願である不凍港獲得に向け、執拗に朝鮮半島へ食指を伸ばしていたのです。

もともとは朝鮮国内の内紛をめぐって、日清戦争が勃発し、その講和条約にロシアが横槍を入れ、満州ばかりか朝鮮の北半分を中立にするという名目で軍隊を南下させてきたのです。

このロシアの横暴は我が国を尊皇攘夷以来の激しい反発運動へと駆り立てていきました。

しかし、産業革命を経た欧米諸国からみれば、当時の日本は奇妙な風俗の未開発国でしかありませんでした。

明治維新三十年後の決戦

ともかく、行灯のもと自給自足していた農業国家が、維新後たった30年で、世界最強の軍隊を擁するロシアと渡り合う事態になったのです。

下関条約以後、日本は来るべきロシアとの決戦を胸に秘め、10年をかけて軍艦建造に夢中となります。

当時、軍艦の建造費は、国家予算の50%を超えたといいますから、今の私たちには考えられない事態です。

大陸で世界最強のコサック兵と戦う日本陸軍も大変でしたが、25万の陸軍へ武器弾薬・食糧などの物資を補給し続けるため、日本海軍の課題はさらに過酷でした。

ロシアがこれを分断するため、ウラジオストック・旅順の両艦隊に加え、世界一といわれるバルチック艦隊を日本海に集結させたからです。

日本海軍に課せられた命題は、このロシア艦隊を1隻残らず破壊することでした。

たとえ勝利しても敵艦をすこしでも残せば、補給路を絶たれる可能性が残るからです。

山本権兵衛、東郷平八郎

2002この過酷な条件に立ち向かったのが、海軍大臣、山本権兵衛でした。

山本は、元薩摩海軍の古老86名を一挙に引退させ、若き海兵出身者で明治海軍を組織し直し、昼行灯の異名をもつ沈着冷静な東郷平八郎を連合艦隊司令官に抜擢しました。

その東郷は軍事作戦のいっさいを参謀秋山真之に一任します。

作戦は天才がたてるべきで、上司はそれを受け容れるのみという立場をとりました。

秋山の用意周到は徹底していました。

絶対負けられないという極度の緊張下において、彼は不眠不休であらゆる敵艦の行動に対して迎撃しうる戦略をたてることに没頭します。

38歳の命が燃え尽きるのではないかというほどの激しい燃焼でした。

歴史に残る丁字戦法は

“水戦のはじめにあたっては、全力で敵の先鋒を撃ち、やにわに2,3艘を討ち取るべし”

という能島村上水軍の軍法書から、秋山がヒントを得て理論付けたものです。

運命の日本海海戦において、東郷はこの丁字戦法を決行します。

有名な”敵前大回頭”です。

戦力拮抗するなかで、ロシア側が単艦同士の撃ちあいという形をとったのに対し、日本側では砲力をいかに一点集中するかに腐心した結果が丁字戦法であり、秋山自身の言葉によれば、戦局は最初の30分で決したといいます。

さらに秋山は済州島からウラジオストックまでの海面を7段に区分し、その区分ごとに夜間雷撃、昼間砲撃を加えるという7段構えの迎撃戦法を用意し満を持していました。

この次々に新手の軍を繰り出し敵を襲う戦略は、川中島合戦で謙信が用いた車懸かりの戦法を応用したものです。

実際にはこの作戦を完遂する前に、日本側の完全勝利が決したのです。

彼の戦略による日本海海戦完全勝利は、白人が有色人種に劣るはずがないという欧米列強の常識を覆したばかりでなく、植民地の圧政に苦しみ、激しい人種差別を受けていたアジア・アフリカの人々を狂喜させ、彼らに独立への希望と自信を与えたのでした。

ついでながら秋山の聡明さは、今後の大戦では巨大戦艦でなく航空機と潜水艦が主役になることをすでに予見していました。

当時はまだ誰も予知しえないところであり、後年、戦艦大和・武蔵がいかに無力であったかは歴史が示しているとおりです。

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