17. 江戸時代 伊予の産業

1701江戸時代には北前船といって大阪から下関を通り日本海を北上し蝦夷にいたる裏日本ルートが主要航路でした。

まず大阪で木綿と砂糖を積み込み、灘で酒、赤穂で塩を買いつけ、伊予で蝋や鬢付け、長州中の関(現在の防府)で米・紙・蝋、下関で繰綿を買って北上し、蝦夷にいたる諸地域で売りさばき、蝦夷では木綿の肥料となる大量のにしんを買いつけ、上方にいたる諸地域で売りさばきました。

電灯のないこの時代、夜を過ごすには菜種油とろうそくが必需品でした。

木蝋・木綿・鰯

ろうそくは櫨(はぜ)の実から油を絞った木蝋(もくろう)からつくられます。

さらに木蝋は鬢付け(びんづけ)という髪油にも加工されました。

大洲・松山・宇和島・吉田の各藩は櫨の栽培を奨励し、生産量があがるとこれを藩の専売として、大阪・江戸へ輸送し藩の重要財源としていったのです。

江戸時代、麻にかわる衣料の中心となった木綿は、原料の綿花が温暖な河内・三河をはじめ瀬戸内海沿岸部でもつくられるようになりました。

このため、綿・木綿は江戸中期以降、松山・今治・吉田の各藩で積極的に生産され、伊予は全国でも十指に入る生産量をほこるようになりました。

特に松山藩の菊屋新助が開発した木綿用高機は生産量の急増につながり、さらに江戸後期、鍵谷カナにより絣織(かすりおり)が考案され、伊予がすりとして全国に普及していきました。

また、河内(大阪)を中心とした綿作に不可欠な肥料が干鰯(ほしか)でした。

大阪魚市場では鰯(いわし)の需要が急増し、宇和海の小型の鰯は大量に大阪へ搬送されました。

宇和島藩はこの売り上げの5分の1を税金として徴収し、おおいに潤ったといいます。

銅山

1685年、幕府は長崎からの中国船による銀流出とオランダ船による金流出に歯止めをかけるため、銅山の開発にのりだしました。

このとき偶然、大阪の泉屋(住友)により別子銅山が発見され、以後幕府の手厚い庇護のもと、元禄時代には1万人の坑夫が集い、全国一の生産量をほこるまでになりました。

しかし幕末には、坑道の湧水、火災、風水害、流行病などで徐々に生産量は減少してしまいました。

塩・和紙・磁器・瓦

1702伊予の塩田は律令時代から大島・弓削島・伯方島・大三島など、瀬戸内海島嶼部を中心に、塩荘園として知られていました。

江戸中期に至り、藩財政を立て直すため大規模な入浜式塩田が開発され、松山・西条の各藩主導で、50町を越す広大な多喜浜塩田と波止浜塩田がつくられ、ついで島嶼部や現在の伊予市・津島町でも入浜式塩田が開発され、莫大な利益をあげるようになりました。

また四国山地には和紙の原料、楮(こうぞ)が自生していたため、大洲・宇和島・西条・小松の各藩で、冬の農閑期の副業として紙すきがおこなわれました。

そのうち生産量が上がると各藩はこれを藩の専売としましたが、その質のよさは全国的に有名で、幕末来日した外国人を驚かせたといいます。

とくに西条の奉書紙は江戸で錦絵に用いられ、また大洲半紙は時の経済学者佐藤信淵に絶賛されました。

松山の郊外砥部地方は江戸時代、大洲藩の領地であり、9代藩主加藤泰侯が肥前大村藩から窯職人を招き、2年がかりで白磁の焼成に成功しました。

以後、藩主の庇護、奨励により、砥部焼きは日用の雑器を中心に大量に生産され、四国はもとより中国地方の農山漁村に販路を広げていきました。

また、瓦は18世紀後半、松山藩で奨励され、とくに菊間瓦は高品質で四国全域ばかりでなく中国・九州へと運ばれました。

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