16. 江戸時代 伊予の生活

1601江戸時代以前、庶民の住居は土を掘って柱を立てる簡素な掘立小屋が大半でしたが、江戸時代に入って伊予でも礎石の上に柱をたてる耐久性の強い住居がつくられるようになりました。

武士の住む武家屋敷の多くは床の間・座敷・茶室・庭をもつ書院造りで、これは一般の町屋にも広まっていきました。

しかし低所得層が住む裏長屋はわずか3坪という狭さでした。

また農村では茅葺屋根の農家が一般的となりました。

江戸時代の風呂は初期には蒸し風呂が中心でした。

火災を避けるため自宅に風呂を造る習慣はなく、銭湯や農村では“もやい風呂”という共同風呂が中心でした。

その後武家の間に自宅用蒸し風呂が造られるようになり、さらに湯を満たして入る湯風呂へと移っていきました。

いずれにしても石鹸がないこの時代、湯につかった後は洗い場で湯をかけながら、ぬかで体を洗い流すのが普通でした。

木綿

木綿は鎌倉時代に中国・朝鮮より輸入されましたが、本格的に普及しはじめたのは江戸時代にはいってからです。

それまでは麻が庶民の衣料の中心でした。

伊予は全国でも10指にはいる木綿の産地で、江戸中期に急速に普及しました。

木綿は織り方や加工の違いで、絣(かすり)縞(しま)、紬(つむぎ)、晒(さらし)、縮(ちぢみ)、など多種にわたりますが、麻にくらべ肌触りが良く保温性が格段によいため、衣類の中心を占めるようになりました。

この時期、農民の衣料は麻・木綿と決められ、庄屋(名主)は絹・紬まで許されていました。

食事

行灯や蝋燭の普及により、就寝時間が延びたことで、庶民の食事は1日2食から1日3食へと変化しました。

武家・公家や江戸の庶民の多くは米を主食としましたが、伊予の庶民の多くは米と雑穀をまぜた飯をとっていました。

おかずは煮魚や野菜などが定番となり、てんぷらやしっぽくなども普及しました。

鮨は最初上方から江戸へ伝わりましたが、江戸湾でとれる魚介類を素材に“握り寿司”がおこり、これが江戸前寿司として普及しました。

また参勤交代により、江戸には単身の男性が数多く集まったため、外食産業が発達し、昔ながらの団子屋、餅屋に加え、そば屋、うどん屋、天ぷら屋、お茶漬け屋、うなぎ屋、すし屋などが数多く出現しました。

しかし、これは巨大消費都市江戸においてのみ見られた現象で、伊予の食生活は質素なものでした。

江戸時代は出生しても無事に育つ子は3人に1人という時代です。

乳幼児期を乗り切っても、飢饉による餓死、また結核・梅毒・脚気・脳卒中・肺炎などで絶命するものが多く、60歳まで生きながらえれば長寿といわれていました。

医療が発達しておらず、薬物も不十分であったため、灸などの民間療法や、巫女・行者による祈祷・お祓いなどが広くおこなわれました。

宗教

江戸幕府はキリシタン禁制に伴い、檀家制度・寺檀制度という宗教統制をおこないました。

つまり、どこの家庭も特定の寺の檀家になることが義務付けられ、国民のすべてが仏教徒になったのです。

これに対し、神道は仏教の従属的立場におかれ、神職の家族ですら寺の檀家に入れさせられるという事態になりました。

しかし民衆の間には前代以来の神仏習合の観念がつよく残っており、全体としては共存の道を歩むこととなりました。

1602仏教寺院は客寄せのため、“縁日”といって 特定の日に神仏に詣でて縁を結ぶという風習を頻繁におこなうようになり、 さらに“開帳”といって寺の縁起や秘仏を開示し、訪れたひとびとから寄進を募りました。

そのたびに、寺院のまわりには露店や芝居小屋が並んで賑わいました。

このほか、山伏は加持祈祷や卜占(ぼくせん)をおこない、虚無僧(禅宗の一派)は尺八を吹き、托鉢しながら仏堂・鐘をつくるための喜捨を仰ぎました。

口寄せ巫女は神社の巫女と異なり、民間にあって依頼者のもとめに応じ、死者の霊を呼び寄せるのを生業としました。

石鎚山は役小角(えんのおづね)が蔵王権現を祀って以来、修験道の霊山となりました。

災厄を防ぐとして瀬戸内を中心の農漁村の代参が盛んで、山開きには講を中心とした登拝がおこなわれました。

講はもともと仏僧による講義・講説を意味しましたが、江戸時代には信仰を共にするものがあつまり、参詣・供養さらには食事をするようになりました。

また念仏は、もとは感謝の祈り・解脱・往生する手段でしたが、農村に念仏講が広まり、葬式・虫送り・厄病よけ・悪霊退散など次第に呪術的となっていきました。

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