14. 江戸時代の武士道

1401鎌倉以来400年間、武士という名の武闘集団は他人の領地をめぐる略奪戦を繰り返してきた感がありますが、明日をも知れぬ戦場の緊迫のなかに武人の道ともいうべきものが生まれました。

兵(つわもの)の道とか弓矢とるものの習いといわれるもので、敵にたいし敬意を払う武人の流儀を意味しました。

禅や儒教思想をとりいれたもので、戦国期の武士道として完成しました。

武士道

もともと武士の刀は殺人兵器であり、それ以上のものではありませんでした。

それが豊臣家滅亡をもって、一挙に武器を必要としなくなりました。

もはや泰平の世に刀を振り回す武士は要らぬことになったのです。

治安のための警察官が少しばかりいてくれればいいわけで、ちょうど、いまの世に200万もの警察官や自衛隊員があふれているような格好になったのです。

江戸時代の奇妙さは、誰も不平を言わず260年間彼らを養ったということでしょう。

明治維新を待たずに思いきって解散してもよかったのです。

この時代の矛盾は、毎日磨き上げた大小を腰にさしながら、いったん抜刀して殺傷にいたると、お家断絶の憂き目に会いかねないという点にあります。

抜刀してはならない刀を数百年間磨き続けたことになります。

彼らは、波風をたてず毎日を粛々と過ごしていくことが、お家のためと信じていたようです。

しかし、自分の進むべき道に悩みを抱いたひとも少なくなかったでしょう。

江戸の武士道はこういう背景の上につくられていきます。

泰平の世では武士は戦闘者である必要はなく、文武と徳を重んじる士大夫(知識階級)が理想とされました。

何の根拠で天下を統治しているかが問われ、信義・礼節・勇気を尊重し、忠孝に励み、死を賭して主君のために仕えるというのが武士である(水戸学)という儒教的武士道が完成しました。

また戦わぬ武士の生きかたを求めて、多くの兵法書が登場しました。

たとえば、柳生宗矩は新陰流兵法花伝書のなかで、水に映った月が斬れないように常にそのような位置に身をおくこと(水月)を勧め、間合いをはかって相手の太刀を死に太刀にすることが重要としました。

また、是極一刀(究極の一刀)とは 、完全に相手の動きを見極めることであるとし、さらに、無刀の極意は相手が刀をとられまいと動揺し、斬りかかれなくすることにあるといい、すきをみて相手との間合いをつめ、斬られて相手の刀をとるというほどの強い気持ちが重要であると説きました。

彼は将軍家兵法指南役という地位から、これからの兵法は多くの民を一部の悪から救うために用いるべきであると説き、あくまで心の持ち様にこだわりました。

思想書とも哲学書ともいうべき内容で、剣の極意を伝える貴重な資料といえましょう。

1402一方、江戸中期、佐賀の藩士山本常朝は、当時の武士の油断を嘆き”葉隠れ“のなかで、武士道というは死ぬことと見つけたりと極言し、主君のため積極的に死を選ぶ姿勢を武士の生きる道と説きました。

とりわけ、恥をかかずに生きるため、二つの道のうち一つを選ばねばならぬときときには、必ず死ぬ可能性が強いほうを選択せよとしました。

なぜなら、その選択が間違っておれば後世にまで汚名を残すこととなるためで、最初から死を選んでおれば、恥はかかずにすむというのです。

時は太平の世です。

このような過激な意見が受け容れらるはずがありません。

本書は死に狂いともいうべき過激さゆえに、佐賀藩においてすら当分の間、禁書となりました。

こうして儒教的武士道のもと、士農工商の身分制を保ったまま、260年の平穏が保たれたのです。

ところが幕末にいたり、突然沸騰した尊王攘夷の嵐のなかで、多くの志士が落命していきました。

彼らはいかに美しく死ぬかという命題に酔い、あっけなく命を絶っていきます。

いかに死ぬかは、いかに生きるかの裏返しであり、彼らは己の生き方が義にそむかず、信に足るかを自問自答しながら、息苦しくなるほど自分を追い詰めていきます。

幕末武士道はその見事な死に様ゆえに、260年をかけて醸成した結晶といわれています。

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