4. 藤原純友の言い分

0401平安時代にはいって律令制はうまく作動しなくなり、あちこちに不備がめだつようになりました。

朝廷にあつまる租税の不足や品質の低下が政治問題となり、国司と在地側の対立がしばしば社会問題となっていきました。

伊予では荘園を逃げ出したひとびとが、海賊となって瀬戸内海を航行する船を襲撃することも頻繁になってきました。

反乱軍の形成

これら地元の不満分子や海賊などをまとめ上げ、一大反乱軍を形成したのが藤原純友でした。

彼の父は大宰大弐であり、時の摂政、藤原忠平といとこ同士という高い身分にありました。

さらに彼自身、もと伊予の擾として、この海賊討伐の任にありましたが、律令制の負担に耐えかねた在地勢力や路頭にまよった海賊に同情するところがあり、在任中、国司との対立が昂じていったようです。

その結果、在地の不満分子や海賊たちに後押しされた形で、やむなく武力蜂起することになったようにもおもわれるのです(940年)。

これに呼応して播磨・備前から九州にいたる瀬戸内各地から、政府のやりかたに不満をもつ勢力が立ち上がり、瀬戸内海全域にわたる大騒乱となっていきます。

このことから当時、政府のやりかたに死を賭してまで立ち上がる人々が想像をはるかに超えていたことがしのばれます。

0402しかもこの頃、朝廷には純友の海上勢力に対抗できるだけの兵力がなく、彼の反乱にたいしても見て見ぬふりをし、逆に彼を従5位下の破格待遇で都へ呼び戻そうとしています。

がそれも徒労に終わり、純友軍は伊予・讃岐・阿波の国府を次々に襲ったのち、一転して九州に向かい太宰府を占領します。

その後も周防・土佐へと進撃し大乱の様相をとるようになります。

大敗

しかし、彼にとっては不運なことに、朝廷からの追捕使が純友の次将と内応したことで、突如形勢は逆転します。

結局大宰府決戦で純友軍は大敗を喫し、伊予に逃げ帰った純友は捕らえられ、斬首の刑にあいます。

こうしてようやく乱は鎮火することとなりましたが、朝廷はこれに懲りても無為無策のまま、施政方針を転換することはありませんでした。

したがってその後も海賊の活動は散発的に続いていたようです。

ところでこの乱の鎮定にあたっては、朝廷の力は及ぶところが少なく、地元の土豪である橘・越智氏らの海上兵力にたよるところが多かったため、この後、彼らを中心とする海上武士団が形成され、水軍として史上に登場していくようになります。

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