幕末の四賢侯 伊達宗城(だてむねなり)

ryoma
たとえばわが国が今から260年間、外国と国交を断ち、あらゆる海外情報をシャットアウトしたとしよう。

260年後に会った外国人は異星人のごとく理解の範囲を越え、対応に苦慮するに違いない。

伊達宗城たちが置かれた状況はこれに近い。

わずかに長崎の出島から海外情報が入っていたとはいえ、大砲で威嚇しながら開国を迫る金髪の大男たちに、幕府役人がその場しのぎの応答に終始せざるを得なかったのはやむを得ない。

この時期、これに毅然として対応できるものが僅かながらいた。

宇和島藩主・伊達宗城はその数少ないひとりである。

閉鎖された社会のわずかな隙間から漏れてくる海外情報を咀嚼し、独自の意見を打ち立てるには、十分な知識と判断力が必要である。

宗城が若い頃、通鑑綱目全書百有余冊をすりきれるまで読破したという勉学ぶりはつとに有名であった。

海外事情には特に好奇心が強く、佐藤信淵の西洋列国史略をはじめ、露西亜国誌、印度総記、都瑠格(トルコ)誌、など手に入るものは片っ端から読破したという。

父親の紹介で水戸斉昭に知己を得て水戸学を学び、海防論、高島流砲術、軍艦、大砲などに関する洋書を次々に貸借することができた。

これを写本にして藩内で翻訳し、軍事改革に役立てたのである。

彼は多少の危険は覚悟の上で、幕府お尋ね者の高野長英を呼んで翻訳にあたらせ、その後は村田蔵六に翻訳ばかりか軍艦建造まで担当させる熱の入れようであった。

いかに外国船に立ち向かうか、日々彼は悩み続けたに違いない。

こうして大名という地位も利用したうえで、およそ国内にいて入手できる限りの情報を得たといえる。

わずか10万石の大名が幕末四賢侯のひとりに数えられるようになったのは、これほどの努力の裏打ちがあったのである。

周旋の才

それに加え、彼には周旋の才があった。

嘉永元年、土佐藩主山内豊熙が病死、あらかじめ養子届していた弟の豊惇が江戸へ襲封の挨拶に行った途端、急死してしまった。

あとの嗣子届まではしていないため、家名断絶の危機となったのである。

このとき、豊熙の未亡人が薩摩藩主島津斉彬の妹であったところから、斉彬の推薦で宗城に相談がもちかけられた。

老中阿部正弘と昵懇の間柄であった宗城は、ありのままを伝え、なんとか善処してほしいと訴えたのである。

阿部は日ごろ、宗城の人となりに心服していたので、事を内密とし、いとこの間柄にあった豊信が急遽15代土佐藩主に決定したのである。

のちに幕末四賢侯のひとりとうたわれた山内豊信(容堂)は生涯、宗城を敬愛してやまなかったという。

さらにかの有名な薩摩藩お由羅騒動においても、宗城は島津家のために奮闘している。

薩摩藩主島津斉興の後継者選びにからみ、斉彬の子供たちが相次いで死去したのをお由羅一派の呪咀によるものだとした斉彬擁立派の暗殺計画が露見し、壮絶な粛清がおこなわれた。

これを逃れた一部のものが斉彬の大伯父・福岡藩主・黒田斉薄のもとへ駆け込み、ことの次第を訴えた。

斉薄は事態の容易ならざるを察知し、斉彬と親しい宗城に事態の収拾を依頼してきたのである。

宗城は斉薄のもとに届いた内願書と必要な書類を整えて幕府に提出。

老中阿部に会って、斉彬の襲封について配慮を願い出たのである。

その結果、この騒動は表沙汰にせず、斉興を隠居させ斉彬を藩主にして結着したのであった。

薩摩藩はこれ以前にも琉球問題で幕府の問責をうけた際、宗城が間に入って事なきを得ている。

斉彬をはじめ薩摩藩が宗城に深い謝意を表したのはいうまでもない。

斉彬を主君と慕う西郷隆盛も宗城には最後まで忠誠を尽くしたという。

独特の存在感と黒船来航

また嘉永2年、肥前鍋島藩と福岡黒田藩との間で、砲台建設でひと悶着が起こった。

長崎は両藩の警備するところであったためである。

砲台を造る造らないで両藩は互いに譲らず、困った老中阿部は宗城に間に入ってもらい、事態を円満解決に導いてもらった。

こうして70万石の薩摩藩、52万石の福岡藩、24万石の土佐藩に恩を売った宗城は、諸藩のなかで独特の存在感を示すこととなったのである。

嘉永6年、浦賀にやってきたペリーは「未開国に対する外交は恐喝あるのみ」とうそぶいていた。

江戸湾の奥深く入り込み、黒船から放った空砲は江戸住民が慌てて避難を始めたというほど、迫力のあるものであった。

老中阿部正弘はこれまでの幕府の “知らしむべからず、寄らしむべし”という基本戦略を破棄し、諸藩に広く意見を求めたのであった。

宗城は「イギリスは5大州に属国のないところなく、戦闘の術にすぐれ中国の次には我が国を狙っている。

アメリカは大統領制、三権分立の国であるが、万国併合の意気盛んで我が国を狙っており、軍艦数100隻、各艦に大砲40~50門を有する。

したがって今戦えば勝算なし」と言い切り、かの国の植民地にならないためには軍艦と大砲を一刻も早く装備すべきであると主張し、幕府に軍艦建造の許可を求めた。

安政の大獄

安政4年、宗城と昵懇であった老中阿部が暗愚の君家定に先だって急死してしまった。

そのあとを継いだ井伊直弼は再度徳川家の威光を取り戻すべく、宗城ら諸藩の意見を抑え込み、独断専行に走り、反対勢力をことごとく抹殺しようとした。

世にいう安政の大獄である。

その一方で、朝廷の勅許を得ずにハリスとの間に日米修好通商条約という不平等条約を結んでしまった。

これは関税の決定権が我が国になく、外国人にたいする裁判権もないというもので、のちに明治政府がこの不平等と戦うのに苦節半世紀を要したのであった。

世界情勢にうとい井伊の失政と言わねばならない。

安政の大獄で宗城も隠居せざるをえなくなり、宇和島に戻り鬱屈した生活に入ったが、安政7年、桜田門外の変で井伊が殺害されると、後を継いだ老中安藤信正は公武合体で事態を乗り切ろうと画策した。

和宮降嫁はその一環である。

こうして宗城にも発言のチャンスが巡ってきた。

御無沙汰書と孝明天皇

文久2年11月、突然朝廷より御沙汰書が届き、上洛して王事に尽くすようにとの命が下ったのである。

水戸学の薫陶を受け朝廷を重んずるところ大であった宗城は、感激して上京し孝明天皇に拝謁した。

天皇みずから口をつけられた天盃を賜った宗城は下座したのち、注がれていた御酒をもったいないと言って手に移してすすったという。

開明の大名にとっても、当時朝廷はかくのごとくやんごとなき存在であったことがわかる。

こうして国事参与となった宗城であったが、元治元年、横浜鎖港問題で一橋慶喜の反対をうけて参与会議は解体され、宗城ら公武合体派藩主は京を去ることとなった。

大政奉還

慶応3年10月、大政奉還がおこなわれ、12月王政復古と同時に宗城は新政府閣僚に名を連ねた。

明治政府にとっても宗城の才能は軽んずべからざるものであった。

しかし明治元年、戊辰戦争が始まると彼は中立の立場をとって、新政府参謀を辞することとした。

このため宇和島藩は参戦せず、以後宇和島の人材は政府の重要ポストにとりあげられることはなかった。

それにもかかわらず、彼のみは明治2年、政府から民部卿兼大蔵卿を依頼され、鉄道敷設の為イギリスからの借款を取り付けることに成功。

また明治4年には欽差全権大臣として日清修好条規に調印し、その後も外国貴賓の接待役を任せられた。

幕末四賢侯のうち、明治の世でもひとり気を吐き、侯爵に列せられ、従1位に叙せられ、75歳の長寿を全うした。

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