因果応報

地獄
ある結果に至った経緯を探ると、直接の原因はひとつでも、それに関する様々の条件がそろって初めて結果が生まれるという事実に気付く。

直接の原因を因といい、それを助ける条件を縁と呼ぶ。あわせて因縁という。

つまり因縁があって初めて結果がでる。これを因果と呼ぶ。

私たちは悪戯をした子供に「悪いことをすると罰が当たる」といい、「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」と言って諭す。

同時に、「いいことをすれば必ずいいことがある」ともいう。

さらに「自分のやったことは自分にふりかかる」ともいい、仏教では悪因悪果・善因善果・自因自果という。

これらをまとめて因果応報と呼んでいる。

自業自得もこの精神を共有している。

死、地獄、極楽

死後は永遠の謎に包まれた世界であり、古来、恐れられ忌み嫌われてきた。

そこから地獄という世界が創造され、それに対する楽園として極楽が創られた。

そして死んで49日目に閻魔大王の審判を受け、極楽往生できるか地獄へ落ちるかを決められるということになった。

むろん釈迦のあずかり知らぬ世界である。

中国唐の時代、閻魔大王は平安期の日本に伝わった。

比叡山の僧、源信は「往生要集」のなかで、悪業や罪を犯す人間は地獄に落ちる。

極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげるようにと説いた。

この時代、多くの民衆にとって世の中は決して明るいものではない。

仏教といっても貴族社会のもので、まだまだ民衆には普及していない。

人々から見れば。悪事が横行しても罰せられず、善行をしたからといって決して良い報いがあるわけではない。

すがるべきもののない不信の時代である。

まして、まもなく末法の世になると噂される不穏な時代であった。

貴族支配の世が終わりをつげ、鎌倉武家社会の登場は、関東平野を発火点として民衆が自己に目覚め、自分の頭でものを考え始めるきっかけとなった。

彼らはまたたくまに、目に見えるものだけを信じる現実主義者となった。

したがって、因果応報にも敏感に反応した。

この世では悪事が罰せられず、善行が報われないのはなぜか?

浄土宗

この民衆の問いかけに答えたのが、「浄土宗」であった。

悪事を働いたものは、今は罰せられなくても死後、地獄に落とされる。

善行を積んだ者は、今は報われなくても死後、極楽浄土に迎えられる。

法然以後、親鸞、日蓮、一遍など、民衆に目線をおいた鎌倉仏教がつぎつぎに生まれ、ひたすら念仏を唱えることで必ず極楽へ行けると説いた。

ただし日蓮は、念仏と同時に法華経の教えを実践する修行が不可欠であるとした。

いずれにしても、鎌倉の世は因果応報が正当に働く時代となった。

これ以後日本人の中に、因果応報を保証する世界観が定着したといえる。

このため我々は、今なお、自分の行為に後ろめたさを感じるとき、地獄に落ちるとまではいかないまでも、罰が当たるかもと一瞬、逡巡するのである。

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