儒教精神

中国
突然、君は儒教の教えに従って生きているかと問われたら、とんでもないと答えるだろう。

そんなことは考えたこともないというだろうが、親孝行をしなければとか、弱いものには思いやりをもって接するとか、嘘はつかないとか、目上のひとには礼儀正しく接するとか、日頃当たり前に考えていることを思い返すと、儒教との関わりは意外に深いと思い直すのである。

儒教は紀元前5世紀、戦乱の中国で、為政者が武力に頼らず道徳的権威で世を治めていくためにはどうすればよいかというところに生まれた。

すなわち孔子は、人にはのこころで接し、をもって親や長老、先祖を大切に扱うべきとした。

さらに孔子より100年後、孟子は戦国の世にだけでは不足と判断し、これにを追加した。

その後徳目は整備され、前2世紀、漢の武帝が広大な領土の人民を支配するために儒教を国教とした。

五常五輪

すなわち、五常(仁、義、礼、智、信)の徳を守らせ、五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)の関係を大切にすることで、帝国に忠実な人民をつくりあげようとしたのである。

5常の徳、すなわち

仁とは人をおもいやる優しい心
義とは正しいと信じる道を進む強い心
礼とは控えめで節度ある心
智とは学問により善悪を判断する心
信とは信じるに足る誠実な心

を指す。

その後紆余曲折はあったが、清王朝が倒れるまで実に2,000年間、儒教は中国を支配した。

さらに儒教は日本と朝鮮に伝わり、明代に至って儒教文化圏というべきものが現出した。ただし日本には浅く、朝鮮へは深く伝わった。

中国から見た日本はおそらく不遜きわまりなかったであろう。中国皇帝は天の意思で決められたものであって、この世に唯一無二の存在である。

ところが、それを無視し、勝手に皇帝に似た天皇という称号を用い、臆面もなく当時の隋に向かって「つつがなしや」と言い放ったのである。

また、天下とは天が覆うかぎりのすべての領土であり、大国中国にこそふさわしい表現である。

それにもかかわらず小さな島国が平気で天下を論ずるのも不愉快であったにちがいない。

遣隋使、遣唐使

我が国は遣隋使、遣唐使を派遣し、7世紀に唐を真似た律令制を取り入れたが、実際は見かけばかりの体裁を整えたにすぎなかった。

同時に仏典や儒教の書物も大量に輸入しつづけたが、その内容に感心はしても、国を挙げて儒教体制にしようとはしなかった。

一方朝鮮にとって中国は脅威である。なんといっても陸続きの隣国である。

7世紀、半島を統一した新羅はただちに中国儒教体制を取り入れ、同じ思想を共有する同志として恭順の意を表したのである。無論唐を宗主国とした。

身の安全を確保するため、日本とは比較にならないほどに切実であった。

金の侵攻

ところが11世紀、宋は異民族・金に北方を侵され、かろうじて南に落ちのびた。

それでもなお帝国再興の夢は捨てず、皇帝を主と仰ぎ大義名分を明らかにしようとする朱子学は、正義の旗印となった。平安時代、平清盛の時代である。

朱子は大風呂敷を広げてみせた。人と人のつながりを説く孔孟の教えを飛び越え、全宇宙を相手に大見えを切ったのである。

すなわち、宇宙のあらゆる物事には動かしがたい正しき姿というものがある。

その姿を決めている法則こそ、「理」というものである。その法則を知り、宇宙の正しき姿を学ぶのが朱子学であるとした。

人間関係において朱子のいう「理」とは定められた君臣・父子の上下関係を指している。それは天地の関係のごとく、動かしがたいものである。

四百年を経て

我が国が本気で儒教を取り入れようとしたのは、朱子の時代から400年を経た江戸時代になってからである。

家康の信任を得て徳川家の儒官となった林羅山はこの名分論を採用し、武士が上、民が下の上下関係は動かしてはならないとした。朱子学は幕藩体制の維持に都合のよい論理であった。

しかし実際、羅山が採用したのは朱子学の体系の一部であり、幕府にとって都合の悪いものは除外した。

こうして儒教とはいっても忠孝ばかりが大きくとり上げられ、藩校、寺子屋などで教授されていたが、江戸中期になると朱子学の空論は民衆に飽きられ、儒学のなかでも、孔孟の昔に戻ろうとする古学、知行合一を唱え武士の士気を高揚した陽明学がひとびとの支持を集めるようになった。

陽明学の祖、王陽明

陽明学の祖・王陽明は心から欲が消え去っておれば、宇宙の法則「理」と心は一体のものである(心即理)。

その心「良知」を働かせた善なる行いを致良知といい、知と行いは同時進行であるとする知行合一を説いた。

このため、陽明学はきわめて活動的で、情熱が燃え上がると過激な行動にでる危険もはらんでいた。

幕末、大塩平八郎・吉田松陰・高杉晋作・西郷隆盛らにみられた溢れんばかりの情熱の源泉が陽明学にあったことは周知のとおりである。

明治時代に入り、政府は天皇中心に人心を纏め上げるため、修身教育(道徳教育)に儒教の忠孝や礼だけを部分的に取り出した国民道徳論を採用し、学校教育の場で実践させた。

さらに、明治23年には教育勅語が発布され、天皇の名で儒教による道徳教育の指針が示され、以後、太平洋戦争の終了まで修身は学校教育の筆頭におかれたのである。

戦後60年、儒教を口にすることはなくなり、その精神はことごとく滅びたといわれる。だが、必ずしもそうとはいえない。

冒頭のごとく5常の徳は、今もひそかに我々のなかで息づいているようにおもわれる。

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