相対的無宗教

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現在のわれわれは生きている間、宗教と深く関わることはほとんどない。

自らの葬儀にあたり、戒名を得てはじめて仏門に入るという次第である。

位牌・法事・先祖供養などは儒教からの借り物であるが、それにこだわるものもない。

ほとんど無宗教といっていい。

地震や洪水などの天災に遭遇した古代人が、なにかにすがろうと仰ぎ見たものは、山の洞窟や巨木あるいは瀑布であったろう。

彼らはそこに神が宿っていると考え、祠をつくり祈りをささげたのである。

森羅万象と神道

すなわち山・川・海など森羅万象に神が宿ると考えた。

またヒトと神はつながっており、ヒトは自然の一部分であるため、死ねば自然に還ると考えた。

我が国古来の神道はこういう世界に自然発生したもので、むつかしい教義はなく、お祓いをして神宿る場を清らかにするというだけのものである。

しかしこの神道の単純明快さが、かえって後世の日本人にも受け入れられる一因になった。

翻って現代のわれわれも、日頃は冷めた目で宗教を見ていて、困った時だけあわてて神頼みすることが多い。

本気で神道や仏教を信じているわけでないから、助けてくれるなら神でも仏でも構わないのである。

こうしてみると、今も昔も切羽詰まれば、やっていることにさして変わりはない。

振り返ってみても、われわれの祖先がひとつの宗教に没入した時代は、それほど多くなかったようである。

古事記と天皇

古事記によれば、イザナギ・イザナミの夫婦神が日本の国土を生み、農業の神・山の神・食物の神をはじめ、八百万の神を誕生させた。

さらに、イザナギの子、天照大御神が皇祖神となり、天皇家の祖先となったと記されている。

この天皇という特異なポストは我が国にのみ存在するもので、それは国王でも皇帝でもない。

つまり外国では時代の変換期には、国王や皇帝を倒してその地位を奪おうとするものが現れるが、我が国ではいかに乱世でも、天皇を倒して自分がその地位につこうとしたものはない。恐れ多い存在なのである。

仏教と鎮護国家

6世紀、百済から仏教が紹介された。それもひとの姿をした金色に輝く巨大な仏像であった。

それまで埴輪程度の人形しか見たことのない宮廷人は、精巧な仏の姿に圧倒されたに違いない。カルチャーショックである。

しかし同時に彼らは、この仏像を使って民衆をひれ伏させることができないかと考え、急いで伽藍をつくり、仏像を安置した。

すなわち蘇我氏や聖徳太子は仏教で鎮護国家建設をめざしたのである。

その後、蘇我氏の横暴に対しクーデターがおこり、壬申の乱を経て、実権を握った天武天皇は伊勢神宮を建設し、神がいつ来ても安らげる場を提供した。

それまで神は常住するものでなく、山・川・滝・古木などを訪れる客神であった。

天武天皇は並行して寺院建築も行い、神仏を仲良く習合させ、国家祭祀に組み込んでいった。

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南都六宗

奈良時代はちょうど、中国で仏教の黄金時代にあたり、諸宗派が次々と伝えられて、いわゆる南都六宗が成立した。

なかでも律宗は鑑真が来日して、完成した律を教え、東大寺の戒壇において聖武天皇をはじめ400余人に戒を授けた。

また、華厳宗は新羅の審祥により伝えられた。その根本思想は一即多、多即一という言葉に集約され、万物は互いに繋がり合って存在する。

すなわち、網の結び目に無数の宝珠があり、その一個の宝珠のなかをみれば、すべての宝珠が写し込まれているというものである。

聖武天皇は華厳経を信奉し、東大寺を中心に全国に国分寺を建て、地域の疲弊回復に腐心した。さらに大仏を建立し、渤海・新羅・唐の圧力に対して存在感を示そうとした。

奈良仏教は国立大学というべき大寺の中で、国家公務員である学僧が経典を前に、護国のための仏教を研究した時代である。庶民へ布教できる状態にはない。

神仏習合

仏教が定着するにつれて、神とは仏が衆生を救うために現れた仮の姿であるという本地垂迹説が起こり、それぞれの神に本地(仏)があてがわれた。

その後も長く神仏習合が行われたため、神道と仏教の間には明確な境界線がなくなった。

現在でも大抵の家庭には神棚と仏壇を祀ってあることが多く、それが問題になることはない。

奈良の大寺がいちいち政治に干渉するのに辟易した桓武天皇は、その影響力を排除するため、平安京に遷都した。

そして奈良仏教に対抗させるため、最澄及び空海を中国に派遣した結果、最澄によって法華経の天台教学が、空海によって真言密教が導入された。

この時代、天台、真言はともに、宮廷のための仏教であり、貴族が望んだのは加持祈祷による現世利益であった。民衆に目が向けられた形跡はほとんどない。

暗黒時代と禅宗

ところが、平安時代中期、釈迦入滅後二千年を迎え、仏法が滅びて暗黒時代になるという恐怖が世を覆うようになった。

このため宮廷を中心に、ひたすら来世の幸せを願う浄土信仰が広まった。

貴族は阿弥陀仏によって極楽浄土に導かれることを願い、さかんに来迎図を描かせた。

鎌倉時代は武士が貴族にとって代わった時代である。

しかし階級闘争を制したものの、教養という点で武士は貴族に引け目があり、しかも自分たちには頼るべき宗教がなかった。

丁度、このころ、中国から禅宗が伝えられた。

すなわち入宋した栄西によって臨済宗が、道元によって曹洞宗がもたらされた。

禅宗による厳粛な坐禅の実践は関東武士団に受け入れられ、武家社会の精神的支柱となっていった。

こうして鎌倉五山をはじめ多くの禅寺が建てられ、禅学にいそしんだ結果、独自の禅林文化が生まれ、絵画・書・作庭・華道・茶道などが発展した。

禅宗は当初中国で完成したが、現世利益を追い求めたため衰退し、皮肉にも日本において開花した。

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貴族から大衆へ

仏教が貴族のもとを離れ大衆の手に渡ったのは、鎌倉時代に入り、法然・親鸞・一遍・日蓮らが庶民に向かって語りかけてからである。

大衆の多くは文字が読めず、即物的な利益を期待する。すなわち、豊作・商売繁盛・子宝・病気快癒、そして叶うなら来世の浄土を願った。

このため、仏の前で手を合わせ、念仏や題目を唱えることで願いがかなうという教えは、彼らの要望に十分応え、一挙に全国へ広がった。

ただ、庶民のすべてが飛びついたというわけではない。最初は薄く広く、やがて水が浸みわたるように徐々に深く伝わっていった。

これらの宗教こそ、我が国にはじめて誕生した自前の宗教であった。

そして驚くべきことだが、親鸞や日蓮による教えは800年たった現在でも色あせず、我が国でもっとも信仰を集めているのである。

惣と宗教戦争

室町時代に入り、歴史の表舞台に登場してきたは農民たちによる自治組織で、荘園領主に対する圧力団体となった。

彼らは村の集会所、寺院である惣堂に集まって会議を開き、決定したことは惣堂に鎮座する神仏に誓った。

新しい宗教もまたを通して村の隅々まで浸透していった。ここに至って仏教はやっと民衆のもとへ届いたといえる。

この時期、本願寺の後継者となった蓮如は、北陸の寒村に「吉崎御坊」という寺を建て、浄土真宗の布教に努めた。その内容は「仏教は人々を差別しない。

阿弥陀如来を信ずる人は、みな平等に救われる。というシンプルなもので、阿弥陀如来とキリストを入れ替えれば、キリスト教の教えと同じである。

本来仏教は啓示宗教でなく、一切皆苦の無神論であったが、蓮如は阿弥陀如来に“救い”の要素をたっぷりもたせたため、キリスト教に似てきたのである。

蓮如はまず、信者が集まって話し合う場、をつくり、それが大きな集会場になると道場と呼び、さらに大きくなると本願寺のに昇格させた。

では信者が平等に扱われたため、近隣ばかりか遠方からも多くの信者が参集した結果、数年で吉崎御坊は巨大な宗教都市に変貌した。

また信者の結束は極めて強固なものとなり、門徒衆と呼ばれる武闘勢力に変貌していった。

彼らは加賀一国をおさえ、石山本願寺で信長と10年にわたり覇権を争うほどの強大な勢力を有した。我が国にも宗教戦争らしきものが登場してきたのである。

キリシタンと一揆

江戸時代に入り、今度は天草・島原で重税に悩む住民が迫害を受けたキリシタンと一緒に一揆をおこした。

正確には宗教戦争とはいえないが、幕府は火をも恐れぬキリシタンの信仰心に驚愕し、キリスト教の禁止と寺請制度を押し付け、200年間、国民をことごとく仏教徒にしてしまった。

このため寺の住職は絶大な権限をもつことになり、所属する檀家の支配者となった。死者は僧侶に引導を渡してもらわなければ成仏できなくなったのである。

その後幕府は、儒教とくに朱子学を武士階級に率先して学ばせた。彼らが幕藩体制の枠からはみ出さず、ひたすら主君に忠節を尽くさせるねらいであった。

そのうち形骸化した朱子学に反発する形で、陽明学や古学などの儒教思想が民間に広がった。

儒教はもともと支配階級を対象にモラルを説いたもので、死生観まで踏み込んだものではない。したがって宗教というほどの匂いはない。

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尊皇攘夷と儒教

幕末に至り、尊王攘夷が鼓舞された結果、情熱の高揚した志士は藩の従属から離れ、天皇を中心とする国家を夢想するようになった。

幕末の志士は儒教の5徳・仁義礼智信に身を置き、自分が公のために行動しているか、恥ずべき行為をしていないかと、自問自答しながら厳しく自分を律したのである。

このときほど儒教が日本人の精神的支柱になったことはない。

幕末武士道がひと際、光芒を放っているのは、彼らが私利私欲を離れ、実に潔く公に殉じたためである。

多くの外国人は、神の啓示も受けていない無宗教な日本人が、きびしく自己を律して高潔な生活を送り、不本意な行為には切腹をもって身を処す態度に驚きを隠せなかった。

江戸時代、学問として頭に入っただけで、身に付かなかった儒教が、はじめて日本人に受容されたのである。しかし、それはあくまで武士階級の話であって、多くの民衆はカヤの外にいる。

廃仏毀釈と国家神道

一方仏教は檀家制度の庇護をうけたため、布教をやめて法要や供養に精出し、葬式仏教に堕した。

さらに貧しいものにも多額の布施を強要したため、民衆から、坊主丸もうけ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、地獄の沙汰も金次第などと揶揄されるほどの恨みを買い、明治に入って廃仏毀釈の逆襲を受けることになった。

明治維新は王政復古によって始まった。政府は欧米諸国がキリスト教伝道を隠れ蓑に、アジアの植民地化を目論んでいることを懸念。

急いで、万世一系の天皇が日本を統治するという国家神道をつくりあげ、これを国教として、自らも欧米に見劣りしない帝国主義国家を目指した。

国家神道は天皇を現人神(あらひとがみ)とし、古事記・日本書紀を神典として、あたかも一神教のごとく振る舞った。

そして80年間、太平洋戦争の終結まで、国民の頼るべきは天皇であり続けた。

終戦と自由

終戦後、天皇の人間宣言という揺り戻しのあと、われわれは完全なる自由を保障された。が同時にその自由をもてあますことにもなった。

自由は得難いが、見知らぬ人に不満のはけ口を向ける無差別殺人や、母親による幼児虐待など、使う者によっては諸刃の剣となる。

科学が進歩すると、宗教のもつ重みが薄れ、鎌倉・室町期にみられた信仰心は湧き上がってこない。

現に若者の多くは宗教を歴史の遺物として眺めている。

2005年、読売新聞が行った世論調査では、宗教を信じていると答えた人は23%で、その数字は年々減っているという。

ところが宗教など問題にしていないと言う人でも、具合の悪いことがあると、神仏の前で手を合わせるのも事実で、日本人が相対的無宗教であるといわれる所以である。

とまれ、日本人の多くが無宗教でいられることは、世の中が安定していることに他ならない。もって瞑すべしである。

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