弥勒菩薩半跏思惟像


広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像が国宝第1号に認定されたというだけで、当時からこの像がいかに魅力的な存在であったかが分かる。

仏像にしては珍しく、座位で右足先を左大腿に乗せ、右膝頭に右肘をついて物思いにふける半跏思惟像である。どちらかというと、人気のない処で、ひとり思索するときにとるポーズである。

無表情にも拘らず、口元に笑みをたたえているといわれ、アルカイック スマイルの象徴のようにいわれるが、しばらく対峙していると、目元、口元に笑みを含んでいるようにも見え、角度によれば、瞑目して物思いにふけっているようにも見える。

弥勒菩薩は釈迦牟尼仏の次に現れるという未来仏で、世話の焼ける衆生を、はてどうして救い上げたものかと、思案に暮れているのだという。弥勒信仰は600年ころ、推古天皇の時代にわが国にもたらされたといわれ、朝鮮半島では6世紀から7世紀にかけ、この像が多く造られた。

この時期の朝鮮半島は三国時代と呼ばれ、南下政策をとる高句麗の攻勢にあって、百済、新羅は生き残りが大変である。

朝鮮半島の事情

両国は400年代を通じ、北から侵攻する高句麗の騎馬軍団に悩まされていた。その結果、新羅は高句麗に降ってその傘下に入ったが、百済は倭国の協力も得て高句麗の攻勢に耐え、550年には新羅とも結んで高句麗軍を押しかえした。

ところが618年、中国に唐というアジア史上最大の大帝国が登場し、隣国・高句麗に攻撃をしかけた。

高句麗が防戦一方となったのをみて、新羅は一転、百済、高句麗領を侵し始めたのである。

この事態に驚いた百済は高句麗と手を結び、新羅に対抗。それに応じて新羅も唐に近づき、臣下の礼をとった。こうして朝鮮半島では、百済・高句麗軍と新羅・唐軍が対峙することとなった。

お互い離れた国と手を組んで、隣の国を攻めるという遠交近攻策である。

それにしても、大国唐の軍事力は他国の比でない。両軍の戦力差は歴然としている。

百済が倭国に仏教を伝えたのはこの時期で、分の悪い百済は、なんとか倭国の援助をとりつけたいと、すがる思いである。

しかしながら、百済を後押しした倭国軍は、664年、白村江で一敗地にまみれて撤退し、結局、百済、高句麗は亡国の道をたどった。

その後、新羅は唐をも朝鮮半島から追い出し、半島の盟主となった。じつはこの時期、唐は西の吐蕃から侵攻をうけたため、朝鮮半島にかまっている暇がなくなったのである。

新羅と友好関係を結ぶ

676年、朝鮮半島の統一がなったのち、天武天皇は親新羅政策をとり、以降100年間、28回にも及ぶ遣新羅使を派遣した。

ただ新羅に対しては対等でなく、日本へ朝貢するという関係を強要した。当初、新羅はおおいに抗ったが、唐との抗争上やむなく朝貢関係をとった。

したがって友好関係が続いたとは必ずしもいえないが、このおかげで人の往来が頻繁となり、新羅ばかりでなく唐からも渡来する人々が絶えなかったという。

弥勒菩薩像の由来

わが国に弥勒菩薩像がもたらされたのは、この激動期にあたる。

日本書紀によれば、603年、秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を祀るため、広隆寺が建立されたとあり、その寺の資材交替実録帳に2体の弥勒菩薩像の記述がみられる。

さらに623年には、新羅からこの寺に請来された仏像があるとの記載があり、これらの記述から、弥勒菩薩像は7世紀、新羅より伝来した仏像ではないかと考えられた。作風も新羅のそれに近い。

一方、弥勒菩薩像の背板に、新羅にはない楠材が使用されていることから、わが国で造られたのではないかとの憶測もある。

いずれの地で造られたにせよ、1400年もの昔に、これほど品位ある仏像が造られたことは、埴輪に毛が生えた程度の能力と見限っていた人たちのド肝を抜いたに違いない。

弥勒菩薩像の魅力

ともかく作者が崇高な仏の姿をイメージしながら造仏したことは間違いないだろう。

右指先の微妙な動きに優雅な気品がにじみ、、瞑想にふける端正な顔貌からはしみじみとした慈愛が伝わってくる。

ガンダーラに発した仏像はその後、各地で様々な風姿を現したが、わが国でも時代を反映しそのときどきの変化が見られた。

造仏の歴史

たとえば、飛鳥時代は朝鮮半島の技術が導入された結果、弥勒菩薩像のような静謐で荘厳な雰囲気が尊ばれ、奈良時代には健康的で均整のとれた体形に人間味のある表情が加わった。

ところが平安期時代に入り遣唐使派遣に終止符が打たれると、大陸の情報が途絶えたため、わが国独自の造仏技術が模索され、浄土信仰に基づく慈愛溢れる仏像が多く造られた。一方で、密教で色付けされた神秘的、激情的、官能的な仏像も登場した。

ついで鎌倉時代になると、武士の登場により東大寺の金剛力士像のように写実的で勇壮な仏像が造られるようになった。

そして室町以後は、禅宗が偶像を必要とせず、蓮如により興隆した浄土真宗が阿弥陀仏を、日蓮宗が釈迦牟尼仏を本尊としたものの、新たな制作意欲が希薄となり、過去の模倣に終始することとなった。

仏像の重要文化財が、室町以後に少ないのはこのためである。

なぜ弥勒菩薩に惹かれるのか?

今なお、弥勒菩薩を拝観しようと広隆寺を訪れる人は絶えない。1400年もの間、これを凌ぐ仏像は出なかったのかと疑うほどである。

この像の魅力は清楚で品位ある中性~女性的魅力とともに、そばにいてくれれば心丈夫と安心でき、ほのかな温もりを感じさせてくれるところにある。

平安期、遣唐使の派遣が中止され国風文化が熟成された。その結果わが国では、万葉集の「ますらおぶり」が影を潜め、古今集以後一貫して「たおやめぶり」が粛々と受け継がれてきたといわれる。

今なお、私たちが弥勒菩薩に惹かれてやまないのは、そのへんと関係あるのかもしれない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする