「もののあわれ」と「やまとごころ」

img_7666

源氏物語への想い

宝暦13年(1763年)、世に名高い“松坂の一夜”で賀茂真淵との対面を果たした本居宣長は、これを機に『古事記』や『万葉集』の研究に本腰を入れるのであるが、なんといっても『源氏物語』は彼にとって特別の存在であった。

そこで、『古事記』、『万葉集』に入る前に、今までの『源氏物語』研究に一区切りつけようと持論をまとめたのが、『紫文要領』である。

もともと宣長は、争いを好まぬ温順な性格である。すでに幼少時漢学の素養を身に付けており、22歳で医学修業のため京都へ遊学した際、師事した堀景山から儒学のほか国学も学ぶ機会を得た。その結果、平安王朝文化へ深い憧れを持ち、とりわけ『源氏物語』に深い愛着をもつようになった。

彼の『源氏物語』に対する思い入れは終生変わることなく、「此物語は、世の中のもののあはれのかぎりを、書きあつめて、読む人を感ぜしめむと作れるものだ」と絶賛した。

彼は、ものごとに触れて心が揺さぶられる結果湧き上がる、しみじみとした情趣や哀愁、「ああ」という例えようのない情感を「もののあわれ」と呼び、それが作品の底流に脈々と流れる『源氏物語』を文学芸術至高の作品と評価した。

そして「もののあわれ」こそ、日本文学の本質であり、和歌の原点もまた、ここにあると断じた。

朱子学全盛であった江戸中期、800年も前につくられた壮大な不倫小説に、これほどの評価をするには相当の覚悟を要したであろうとおもわれる。

彼は仏教や儒教の道徳観が人間本来の感情を抑えつけていると批判し、文学の目的は儒仏の教えや道徳を説くことではなく、素直にものに感じる心を養うことであるとして、自然な感情表現こそ崇高なものであるとした。

したがって朱子学の勧善懲悪的観念や仏教的立場からの論評に強いアレルギーを示した。

紫文要領

『紫文要領』は宣長34歳の作であるが、源氏熱は冷めることなく、その後も「古事記伝」執筆と並行して、自宅の鈴屋(すずのや)で源氏物語の講義をつづけた。

後年、68歳になって再度まとめた『源氏物語玉の小櫛』と比べても、源氏に対する評価は一貫して変わらない。

しかも驚くべきことに、1000年を経た今もなお、『源氏物語』は光芒を失わず、「もののあわれ」に酔いしれるものは後を絶たない。源氏がこれほどまで後世の人々に愛されるようになったのは、ひとえに宣長の功績といってよい。

宝暦7年(1757年)京都から松坂に帰った宣長は小児科を開業し、昼間は医業、夜は『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。27歳の時、賀茂真淵の書に出会って、本格的に国学の研究に取り組むことになる。

当時、幕府公認の学問は朱子学である。しかし彼は儒教や仏典の研究はあくまで外来の学問であり、我が国にも日本独自の思想や精神があるはずと考え、それを日本の古典や古代史のなかに求めたのである。

ただ、我が国には儒教の四書五経、仏教の仏典に相当するようなバイブルがない。そこで彼は万葉集や古事記、源氏物語に注目したのである。

古事記・万葉集・源氏物語・平家物語・伊勢物語

当時、最古の書物が『古事記』であることは知られていたが、奈良時代に創られてすでに1000年を経ているにもかかわらず、その内容は解読不能であった。

古事記の時代、我が国に口語はあっても、文章を記すための日本語がなかった。やむなく中国から漢字を借りて書き記すほかなかったのである。その羅列された漢字をひとつひとつ解明し、『古事記伝』を著したのが本居宣長である。

彼は賀茂真淵に勧められて万葉集に入り、万葉がなを習得したのち、抜群の語学力で古事記の解読を始め、並行して万葉集、源氏物語、平家物語、伊勢物語に取り組んだ。

ひたすら独学である。苦心の結果、テニヲハの係り結びの法則を発見し、これらの古典をつぎつぎに読み解いていった。言語学者として余人の追随を許さぬ能力を身に着けていたことが窺われる。

古事記、神道そして礼儀

とりわけ『古事記』に対する取り組みは尋常でなく、35歳から68歳まで33年間、たゆむことなく解読作業に取り組み、『古事記伝』44巻が完成した翌年、緊張の糸が切れたかのように、世を去っている。彼は常々持続こそ力であると繰り返していたが、まさにそれを体現したといえる。

そして『古事記』研究に没頭した結果、太陽神の子孫である天皇が統治する日本を世界でもっとも尊い国であるとし、我が国には太古より自然の神道があって、おのずと礼儀が備わっており、日本こそ真実の教えが唯一伝わる国であると確信した。

そして日本独自の精神におもいを致した結果、日本人には豊かな感受性と素直に感動する心が備わっており、それを「やまとごころ」と呼んだ。

しかしその心根は決して雄々しく逞しいものではなく、朝日に匂う山桜花のごとく儚く滅びる運命にあるにもかかわらず、控えめで潔いものと位置づけた。

近年の大災害に対する国民の姿勢に、「やまとごころ」を感じるひとは少なくないように思われる。国の品格というべきものであろう。

宣長の「やまとごころ」は後年、「大和魂」として尊王攘夷や軍部のアジテーションに利用されるのであるが、それが彼の意図したところでないことは言うまでもない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする