かぶきもの(傾奇者、歌舞伎者)

傾奇者(かぶきもの)の登場

傾く(かぶく)とは、正道から外れている状態をいい、傾く(かぶく)者とは、まともな恰好をしていない者、道を外れた者の意で、世間ではかぶきもの(傾奇者、歌舞伎者)と呼んで、胡散臭い連中という目でみている。

いつの世も傾く者はいるが、室町期も終わりに近づくと、足利氏の権威は形骸化し、身分はなくとも実力あるものが世を制する戦国期となる。こうなると傾奇者(かぶきもの)にも世に出るチャンスがでてくるのである。

社会の底辺にいる貧農やごろつきと言われる無宿者など、傾奇者(かぶきもの)といって蔑視されてきたものたちが戦国大名の配下につき、足軽や人足に組み込まれたり、才あるものは武器の調達や敵国情報の収集などをおこなった。

驚くべきことだが、この者たちのなかから僅かながら求心力を蓄えた者が出現し、権力を奪い取る事態が出現している。水に落とした墨汁がみるみる周りに拡散するように、彼らは接するものを次々に篭絡していったという点で、十分に魅力的といえる。

なかには一国一城の主にのし上がるものまで現れた。斎藤道三、豊臣秀吉などはその典型である。

しかし傾奇者(かぶきもの)の多くは、ごろつき、暴れ者で、争いを好み、略奪、窃盗に明け暮れていた。

世が乱れ明日をも知れぬ身であれば傾奇者にも面白き世であるが、徳川氏が戦乱を終息させ、世が平穏を取り戻すと、かれらに居場所はない。しだいに姿を消していったのは当然といえる。

町奴、旗本奴の登場

ところが江戸時代のはじめ、胡散霧消したはずの傾奇者が江戸の町に現れた。

没落した小領主や農民のうち、低賃金で武家に雇われ、槍持ちや草履取りなどに従事する中間(ちゆうげん)、小者(こもの)と呼ばれたものたちが中心である。

彼らのなかには、社会の底辺に押し込められた閉塞感から反社会的となり、奇抜な恰好をしたり、暴力抗争、無銭飲食、金品強奪などの狼藉をはたらくものが現われた。

これらの傾奇者の傍若無人は当然のごとく社会から毛嫌いされたが、一部のものには、仲間への信義に厚く命を惜しまぬ潔さが、男伊達と呼ばれて称賛されることもあった。

このような傾奇者を町奴と呼んだ。

慶長17年(1612年)、幕府に捕縛された大鳥 逸平は、300人もの傾奇者を統率し、武家に対抗した町奴であった。彼は厳しい拷問にも仲間の名を暴露せず斬首されたが、その死をも恐れぬ信義に厚き行動は共感を呼び、末長く語られることとなった。

その40年後、男伊達で世に名を成したのが幡随院長兵衛である。策略を目論む敵の誘いに乗り、「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」と啖呵を切って単身敵地に乗り込んだ男気が後世まで伝えられることになった。

一方、これらの町奴とよばれる傾奇者に対し、意外にも関ケ原の勝ち組である徳川政権の旗本や御家人からも傾奇者が現われ、旗本奴と呼ばれた。

関ケ原で勝つには勝ったが、自分たちは武士である。いくさがなくなった途端、武力は要らなくなったわけで、もはや我々はお情けで置いてもらっているに等しい。それにしても、直参である我々より外様のほうが給与がいいというのは、どういうことか。この不満、鬱憤をはらすため、旗本奴になるものが後を絶たなかったという。

しかし寛文4年(1664年)、旗本奴の頭目で幡随院長兵衛の仇敵であった水野十郎左衛門が処刑された。これを機に、かれらの行動は幕政を乱すものとして、厳しく取り締まられるようになり、しだいに旗本奴は姿を消していった。

“かぶきもの”から“傾奇者”、“歌舞伎者”へ

その後、かぶきものがもつ信義に厚く、死をも恐れぬ気風は、侠客と呼ばれる人たちによって、傾奇者として受け継がれていくことになった。

一方、かぶきものがもつ享楽的で華美な風体から来る美意識は、歌舞伎という芸能のなかで“歌舞伎者”として花開くことになった。

もともと歌舞伎とは歌舞する女の意である。

慶長8年、出雲阿国なる女性が男装し、歌舞伎者の派手な装いでかぶき踊りを始めると、一気に人気に火が付いて全国に広がり、それが歌舞伎者さらには歌舞伎役者に発展し、今日の歌舞伎の出発点となった。

しかし、阿国につづく女歌舞伎のものどもが、風紀を乱す事件をしばしば起こしたため、1629年、女歌舞伎は禁止の憂き目にあった。その後、美少年が女を演じる若衆歌舞伎に変わったものの、同じく風紀が乱れたため、結局、成人男性のみによる野郎歌舞伎に落ち着いた。

そして、見た目の美しさでなく、演技によって女を演じる女形が登場し、芸が磨かれていったのである。

市川団十郎と坂田藤十郎

元禄時代、武士の気風が色濃い江戸においては、豪放磊落をよしとする気分が横溢している。

その要望に応え、荒事芸(力強く豪快)で一世を風靡したのが成田屋の初代市川団十郎である。

成田屋は市川家の屋号であり、屋号とは市川家の特徴をもとに家につけられた称号である。

子に恵まれぬ団十郎が成田山に子宝祈願をしたところ、見事男子を授かった。そこで感謝の気持ちを込めて成田不動明王山を演じたところ、大向こうから「成田屋っ!」という掛け声が掛かったことに由来する。

一方、京では坂田藤十郎が近松門左衛門とタッグを組み、恋愛をテーマにした近松作品を演じて不動の人気を得た。団十郎の荒事に対し、女性的で優美なやつし事、濡れ事を得意とし、和事の祖と呼ばれた。

剛柔全く異質の役者が東西に現れたことで、歌舞伎人気は盛り上がり、今日の繁栄へと繋がることになった。

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