数寄(すき)

茶道

歌道の風流

数寄は風流・風雅に心を寄せることをいい、鎌倉時代に入り、歌道の風流を意味するようになった。

それを体現したひとに西行がいる。家族を捨て歌道の道に没入した西行に、世間は憧憬と賞賛を惜しまなかったため、後世、彼に続こうとするものが絶えなかった。

古来我が国には、生活感に乏しくても風流人には特別の敬意を払う文化がある。世捨て人の西行が天下人頼朝の求めに応じて歓談したのは有名な話だが、当時から数寄は過分な評価をうけていたことがわかる。

室町時代になると、連歌が流行し、数寄は連歌にのめり込む偏執的な性格をもつようになった。その場は武士も農民も身分を離れて自由にものがいえる異時空間であり、ひとびとはその魅力的な非日常世界に陶酔した。

連歌から茶の湯

しかし信長の桃山時代にいたり、堺の町衆の間に茶の湯が流行するようになると、数寄は連歌から茶の湯に移っていった。

なにしろ明日をも知れぬ戦国の世である。戦国武将にとっても、茶室だけは唯一、丸腰で腹を割って語り合える空間であり、彼らは心休まるひとときを求めて茶の湯に傾倒した。

信長の時代、茶道具は鮮やかな色彩の唐物が尊重され、多くの武将は信長から茶の湯を嗜む許可をうけ、名物茶器を所有することが一国を統治するだけの価値に等しいというパラドックスに洗脳されることとなった。

信長にとって、荒武者の粗暴を矯めるのに茶の湯は格好の道具であり、彼は存分にそれを利用したといえる。

ここに稀代の茶人が登場する。千利休である。

千利休

信長の時代は津田宗及、今井宗久の後塵を拝していたが、秀吉の時代になるや、卓越した審美眼で茶の湯を芸術的な域に昇華させ、物怖じせぬ度胸と才覚で秀吉の股肱となり、「内々の儀は利休に」と言わせるまでになる。

利休の数寄は尋常でない。

茶道は禅から生まれたものであり、求めるところは、無心になって心底に潜む仏心を悟ろうとする禅と同一(茶禅一味)であるとした。

したがって、茶室も茶道具も華美であってはならず、山中の草庵のごとき狭く静謐な空間で、いったんにじり口を抜けると身分を問わぬ無礼講の世界が約束され、ひとときの一期一会に専心しようというである。

このため、茶道具は唐物が否定され、抑制のきいた閑寂な風趣が尊重された結果、手作りの楽茶碗や、竹の茶道具を用いて創意工夫をこらし、意外性のある演出で客の心を捉え、侘び数寄の世界を演出するようになった。

たとえばヒビが入り水漏れする竹の花入れに破調の美を演出したり、庭の朝顔をすべて切りとり茶室の朝顔一輪に美を集約させるなどの意匠に、それが見て取れる。

利休は世上、裏の政権と噂される程に、政治的にも卓越した才能を発揮した。

風雅を嗜む日本人

たとえば、農民出身の秀吉を天下人たらしめるために、禁中に設置した黄金の茶室で秀吉みずから正親町天皇に茶を献じさせ、朝廷を屈服させるのに成功した。また、北野大茶湯(おおちゃのゆ)を催して、気位の高い京都人1500人を招いて瞠目させ、訝しむ彼らの心をつかむのに成功した。

利休ののち、数寄は茶の湯を、数寄屋は茶室を意味していたが、江戸時代、家元の権威化が進んだ結果、「数寄」は名物茶道具を蒐集する人々を、「数寄屋」は料亭や住宅の高級建築をさすようになった。

こうして数寄は利休の「侘び」から離れてしまったが、数寄が廃れたわけではなく、現在も茶をはじめ和歌、俳句、書、画、生花にと、風雅を嗜む日本人が減る気配はない。

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