苦肉の策“神仏習合”

森

神代の国

古来我が国は、八百万の神のまします神代の国であった。無論、神が目に見えるわけでなく、森羅万象に宿ると信じられてきた。

ところが6世紀、百済から朝廷に仏像が献上されると、朝廷はその扱いに戸惑うこととなった。なにしろいきなり、異国の神が出現したのである。しかも朝廷・貴族を守護する神だという。

しかし朝廷貴族や豪族には、すでにそれぞれ氏神がいて一族を守ってくれている。いまさら、神から仏に乗り換えるといっても、そう簡単にはいかないのである。

しかしなんといっても、仏像はひとの姿で黄金に輝いているのに対し、我が国の神々には姿かたちがない。すがたが見える見えないは決定的な差であって、神は明らかに分が悪い。

ただ、天皇は神を祀る司祭の立場にある。当然神を擁護しなければならないはずだが、光り輝く仏像の前で、どうしたものかと途方にくれたに違いない。

重臣の蘇我氏は、周辺諸国はみな仏教国であり、我が国もその文化圏に入らなければ相手にされないという立場である。

仏教を保護する天皇たち

そこで天武天皇は大官大寺、持統天皇は薬師寺を建てて仏教を保護することにしたが、その動きは聖武天皇に至り頂点に達した。

聖武天皇の頭にあるのは、天皇を頂点とした国づくりであって、人心を掌握した鎮護国家を第一に考えている。民衆の救済や彼らの現世利益は二の次である。

しかも当時の日本人に、国家に忠誠を誓う国民感情はまだ育っていない。ばらばらである。 

そこで聖武天皇は仏教を利用して民衆の心を掌握しようと目論み、国民総出で東大寺大仏を建立しようと呼びかけた。

東大寺の大仏

人口600万程度の当時、あれほどの巨大建築をものするには、延べ人数にして国民の2人に1人は参加する必要があったといわれる。聖武天皇はそれを強制でなく、参加すればご利益(ごりやく)が得られると囁いて、民衆の自発的な協力を引き出すのに成功した。

大変な難事業であったが、完成した巨大な大仏を前に、民衆は仏教によるご利益を確信したに相違ない。同時に朝廷も人心の掌握に成功し、ほくそ笑んだことだろう。

しかし、神主の代表であるべき天皇が、公然と仏教を取って神道を捨てるわけにはいかない。

神仏習合

なんとか両者の顔を立てようと編み出されたのが、「神仏習合」である。神と仏は同体ということにして、一緒に祀ろうというのである。

これは思いのほかうまくいった。その理由はふたつある。

ひとつには、仏像はもたらされたものの、仏教の教えが入ってきたわけではなかったこと。ひとつには仏像の献上された先が、朝廷、貴族だけであったことである。朝廷は自分に都合のいいように編集しなおすことができた。

そして仏教の本質である「悟りをひらく」という部分は封印され、仏は神々の一員であって、神、仏に関係なく同じご利益を得ることができると説いた。

この方法で神への信仰をそのまま仏に移行させていったのである。

その後平安時代に入ると、神仏の関係はさらに発展する。

神前で読経という詭弁

すなわち、神に「じつは私は仏教の仏なのですが、この国では神の姿をとっています。あくまでも仏を守護するのが私の役目です。」といわせて、神前で読経するという奇行が平然とおこなわれるようになった。

この詭弁は「本地垂迹説」と呼ばれるが、同時に全国の神社の境内に寺を建てて「神宮寺」とし、祭神に仏尊を掲げるようになった。こうして神と仏は互いに中傷することなく、逆に補完しあいながら、共存することになった。

このように、国家が白か黒かの選択を迫られたとき、その両者の顔を立てる解決策を編み出したところに、日本人らしい手法が見える。

我が国では、穏健な選択をした聖武天皇には優しいが、独走する織田信長や井伊直弼には、存外冷ややかである。進む方向が間違ってなくても、それによる犠牲者のほうに目が向くからであろうか。

どうも我が国には、独断専行で国の舵取りをするものにはアレルギーを示す国民性があるようだ。

本地垂迹説はその後江戸時代の終わりまで、多くの日本人に受け入れられたが、江戸後期、復古神道の考えが出てくると一転、俗神道として排斥の憂き目に遭った。

さらに明治に入って神仏分離令が発布されるや、神と仏は完全に離別することとなった。

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