松陰の死生観

帆船

幽囚録

「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」

すなわちカムチャッカ、オホーツクを含む北海道の開拓、琉球の領有、朝鮮の属国化さらに満州・台湾・フィリピンを領有せよというのであるから相当過激である。また伏見に幕府を移し、京に防衛網を張り巡らせた強固な軍事国家を造れという内容である。

これは幕末、長州藩の俊才、吉田松陰が記した「幽囚録」の一節である。二十七歳の若者の意見とはいえ、大東亜共栄圏構想を髣髴とさせる過激な論旨である。

幼少のころより「論語」「孟子」に精通した吉田松陰は、天保11年、僅か十一歳のとき藩主毛利敬親の御前で「武教全書」戦法篇を講義し、十九歳で藩校明倫館の兵学教授を勤めたという、長州が天下に誇る逸材である。

藩主はことのほかこの才覚を愛で、藩全体で彼をかばいながら激動のなかを通り過ぎようとしている。

脱藩

嘉永三年(1850年)、清が欧米列強に屈服し、山鹿流兵学はすでに時代遅れと悟った彼は、西洋兵学を学ぶため九州に遊学した。しかしさらに見聞を広めたいと思うとじっとしておれず、嘉永五年、藩に許可を得ず、脱藩してまで東北諸藩に出発した。

このため藩から禁を犯したとして、士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。ほとばしる情熱の前には、親族に及ぶ迷惑などまるで眼中にないかのごとき独断専行で、まさに刹那的である。

しかしながら、藩主は彼を許し、翌年には江戸に留学を許すという温情まで与えている。

江戸に出た松陰は佐久間象山に出会い、薫陶を受けることになる。嘉永6年(1853年)、難物で知られる象山から格別の信任を得た松陰は、ペリー来航の報に接し、象山とともに黒船の視察に出かけた。

圧倒的な西洋の軍事力に衝撃をうけた彼は、早速藩主に会って国防の整備と朝廷中心の国家建設の重要性を説いたという。このあたり、彼と藩主の関係は友人のごとくである。

安政元年(1854年)、居ても立ってもいられない彼は、またもや無謀極まりない行動に出る。

再来航したペリーの艦船に無断で乗り組み、直談判でアメリカ密航を熱望するのである。無論、密航は重大な国禁であり、極刑は覚悟の上である。

しかしペリーに断固拒絶されたため、彼は乗り捨てた小舟を証拠に幕府から追及されるであろうと観念し、潔く自首したのである。これに連座し、師匠の象山も入牢の身となった。幕府は慣例どおり両名を死罪にしようとしたが、老中阿部が反対したため、長州・野山獄に送還することで決着した。

松下村塾の始まり

安政二年、出獄を許され杉家に幽閉の身となった二十六歳の松陰は、近所の者たちを集めて、孟子の講義を始めた。教材は能力に応じて選び、基本的には教えるのでなく、一緒に考えるという姿勢を貫いた。また皆で集まり時事を討論する一方、農作業、水泳、登山もおこなった。世に名高い松下村塾の始まりである。

塾生80人のうち半分は士族、残りは足軽、町人、僧侶などであったが、塾は萩城下で評判となり、長州藩全体から俊才が集まってきた。

松陰が松下村塾を開いたのは、安政三年からわずか2年余りに過ぎない。しかしその間に彼は、慌ただしく自分の思想を長州の若者に吹き込んだのである。

松陰の教育の本質は、教師と生徒の上下関係でなく、共に学ぶという徹底した平等主義である。

彼は教え子を「諸友」と呼んで教師と生徒の関係をなくし、あらゆる出自のものから身分という垣根を取っ払って対等に扱った。

また年齢が低くても子供だからという扱いはせず、青年と一緒に議論させた。

そして自分以外の者はすべて師であると説き、学ぶことに貪欲であれと教えた。彼のほめ上手は実に見事で、若者のやる気を引き出すのに十分であった。

また、つねづね松陰は、学問とは「人間とは何かを学ぶことである」と言い、

「学者になってはならぬ、口に出したことは実行せねば意味がない」、「実行は成果が出るまで辛抱づよく継続すること」、「やることには筋が通っていて、ぶれないこと」

を強調した。

わずか2年の松下村塾が後世、語り継がれるようになろうとは、だれひとり思いもしなかったであろう。しかし、この若者の精神は、見事に引き継がれ、松陰は緒方洪庵とならぶ「幕末最高の教育者」と呼ばれるようになる。

有言実行を説く彼は、安政五年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したのに激怒。さらに老中首座・間部詮勝が朝廷を厳しく取り締まろうとしているのを聞き及び、ついに彼の暗殺をも画策する。

そして塾生を集めて要撃隊をつくり、藩には武器・弾薬の提供を願い出て、藩首脳を慌てさせた。計画が漏洩すれば、長州藩取り潰しは免れない国家反逆罪である。

このときは弟子の久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎らが反対したため、計画は頓挫した。

言行一致を主唱する松陰は「僕は忠義をなすつもり。諸君は功業をなすつもり」といって嘆いたという。

長州藩はこの陰謀が幕府に知られるのを恐れ、松陰をそっと野山獄に連れ戻した。むしろ、かくまったというべきであろう。

しかし、とんだところから松陰に火の粉が飛ぶこととなる。

安政の大獄

安政五年、安政の大獄が始まり、幕府に捕縛された攘夷志士梅田雲浜が、萩で松陰と会談したことを自白したのである。

ことの次第を判明させるべく、松陰は江戸の評定所へ呼び出されることとなった。

長州藩はしまったとおもったが、しかたがない。

ところが幕府評定所に出向いた松陰は、自分の意見を述べる絶好の機会であると捉え、唖然とする役人の前で、老中暗殺計画をも告白してしまうのである。

この時、松陰の命運は尽きたといえよう。

彼はこの期に及んでも、「誠を尽くせば必ず理解してもらえる」という人間肯定の立場を崩していない。

その言動はまるで子供のような無邪気さ、無防備である。

幕閣は当初、暗殺計画を素直に自供した点を情状酌量し遠島にしようとしたが、井伊直弼の一喝で「死罪」が決した。

処刑直前に書かれた「留魂録」には、松陰の死生観が気負いなく淡々と述べられている。その要旨である。

「自分についていえば、やはり花が咲き実りを迎えたときなのであろう。人の寿命には定まりがあるわけではない。

人間誰にでも、それに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳で死ぬものには、その十歳のなかに四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。

自分はすでに三十歳である。四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。

もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう」

松陰は死ぬべくして死んだ。純粋に“義”を突き詰めていけば、彼のごとき生きざまとなる。

とまれわれわれは、先人にこのような日本人がいたことに感謝すべきであろう。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする