町医者から医師へ

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いまも開業医のなかには、「ほんの町医者です」などと、自らを卑下していう習慣がある。

町医者は江戸時代の町や村で、細々生計を立てていた百姓および町人身分の医者の総称である。

強いて言えば士農工商の工にあたり、身分は決して高くない。

だれでも希望すれば医師になれる時代であったが、有名な医師のもとで修行してからでないと、患者の信用が得られず、実際には家業として成り立たなかった。

町医者への支払いは、盆暮れにまとめてすることが多く、それも米や作物が多いため、ほとんどの町医者は生活に苦労していたという。

町医者から医師へ

町医者から医師と呼び名が変わったのは明治に入ってからである。

知人に伊達藩・御殿医の末裔と米沢藩・藩医の十何代目という人物がいた。

御殿医は藩主お抱えの侍医で数名の有名な医師団からなり、その最たるものが将軍家専属の奥医師である。

どの藩も江戸屋敷と地元に数十名の藩医をかかえており、藩士一族の診療にあたっていた。

代々世襲制である。

彼らは町医者と違いサラリーマンであり、生活は安定していた。

もともと医学は仏教とともに中国より遣隋使、遣唐使らによってもたらされたが、我が国では薬師如来に象徴されるように、薬師(くすし)といわれる薬学の専門家が生薬をもちいて診療をおこなった。

ただしその恩恵をうけたのは一部の富裕層で、庶民のほとんどは、民間療法や加持祈祷に頼っていたらしい。

平安期には、900種にも及ぶ医薬の集大成医心方が完成している。

鎌倉期には宋の医学を僧が輸入し、仏教の布教と共に医療が大衆化した結果、日本独自の実用的な医学が模索され、中国医学と袂を分かつことになった。

その後戦乱の相次ぐなか、銃剣による外傷の治療が求められ、軍陣外科の金創医が誕生した。

焼酎で消毒し創傷を手術することもおこなわれた。

室町期には婦人科、小児科、眼科、口中科などが誕生。

また田代三喜とその弟子・曲直瀬道三により、明から李朱医学がもたらされ、我が国漢方医学の祖となった。

江戸初期には後世方(こうせいほう)が一世を風靡したが、観念的であったため徐々に衰退。

その後、低迷する漢方に新風を吹きこむ一派が現れた。

古医方(こいほう)と呼ばれる一派である。

彼等は漢方の聖典とされる「傷寒論」を見直し、実践的学問に戻るべきであると主張した。

ちょうど、朱子学に対して興った古学に似ている。

江戸時代の医学は漢方医学中心ではあるが、中国のそれとは同一でない。

内科は医学の主流で本道(ほんどう)と呼ばれ、ほかに外科、眼科、女科(婦人科)、口科(歯科)、整骨(整形外科)、鍼科(針灸)などが出揃った。

将軍吉宗と蘭学

さらに江戸中期にいたり、実学を尊ぶ将軍吉宗が洋書の禁を緩和し、宗教書以外の蘭書の輸入を許可したため、蘭学が一挙に勃興することとなった。

かくして長崎にもたらされたオランダ医学の知識は、多くの医学者を驚かせるものであったが、1770年、杉田玄白は腑分けの見学に立ち会った際、携帯した解剖書ターヘルアナトミアの精緻な図譜に驚き、一刻も早くこれを翻訳し医術の進歩に寄与したいと念じるようになった。

そして前野良沢らに協力を求め、ほとんど知識のない蘭語を、4年にわたる艱難辛苦の末、翻訳に成功。

日本文化史上画期的ともいえる解体新書の発行にこぎつけた。

この間の事情は、齢80を越えた玄白が懐古談として蘭学事始に記している。

こののち、蘭学を通じて西洋医学はまたたくまに全国へ浸透していった。

そして1858年、13代将軍家定が重病に陥った際には、将軍家においても漢方医一辺倒をやめ、蘭方医の採用に踏み切ったのである。

築地本願寺のそばにあった桂川家は将軍家お墨付きの蘭方外科医であり、幕末、蘭学のサロンになっていたことから、福沢諭吉もしばしば訪れたという。

有名なシーボルトはドイツ人である。

1823年、若干27歳で、オランダ国王の許可を得、長崎出島のオランダ商館つき医者として来日した。

身分は貿易調査員であって日本の動植物の発見が目的である。

医学教育に来たのではなかったが、長崎奉行の許可を得て島原郊外に鳴滝塾を開いて実地診療のかたわら、高野長英、伊東玄朴、二宮敬作など多数の門人を育成した。

専門の医学のほか、動物、植物、化学と各分野にわたり50人に余る門人を育てたが、国禁を冒し日本地図を持ち出そうとしたため、やむなく国外追放となった。

1857年、我が国で最初に本格的な医学教育をおこなったのは長崎海軍伝習所に医学教師として着任したポンペである。

28歳のオランダ軍医ポンペは幕府の俊英松本良順とその弟子に、5年間、基礎から臨床にいたる医学全講義をなんと独りで教授し、我が国初の西洋式病院長崎養生所を設立した。

日本近代医学の恩人といわれる所以である。

その後、良順は西洋医学所(のちの東大医学部)の責任者となり、そのほかの弟子たちは故郷で医学塾開設や蘭方医となり、明治期における近代医学発展の礎となった。

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