シーボルトのみた日本

オランダ

医師、シーボルト

日本人にとってシーボルトは日本近代医学の恩人として記憶に新しい。

ところがヨーロッパ社会は、彼を医学者でなく世界一の日本通、とくに日本植物におけるエキスパートとして評価しており、同じ賞賛にしてもその評価は奇妙なほど異なる。

1823年、弱冠27歳の医師シーボルトが来日した。

彼らヨーロッパ人にとってみれば、200年も国交を閉ざしている不思議の国である。

彼は大学で医学教育をうけたとはいえ、医師としての経験はわずか2年である。

臨床経験がものをいう世界で、2年は初心者にすぎない。

しかし、この時期、彼の医療技術はヨーロッパ医学を知らぬ日本人を瞠目させたのである。

確かに腹水穿刺をし、陰嚢水腫、兎唇、乳癌の手術をおこない、鉗子分娩を行い、瞳孔を開大して眼科手術を行ったとなると、もはや新米とはあなどれぬほどの技量である。

短期間に密度の濃い研鑽を積んだことが分かる。

彼が軽薄の徒であれば有頂天になって、いたずらに日を過ごしていたに違いない。

しかし事実は違った。

学問的好奇心

ドイツの大学で医学以外に動植物学、民俗学まで学んだというだけあって、彼の知的好奇心は人並みはずれたものであった。

彼は長崎出島の商館医を勤めたケンペル、ツュンペリーの書物を読んで東洋への関心を持った。

そしてオランダ国王の許可をえて東インド会社職員としてアジアへの赴任に成功し、ついで出島のオランダ商館医として日本入国を果たしたのである。

この間彼の頭を占めていたのは、日本人の生活風俗、動植物に関する学問的好奇心であった。

偶然、オランダ政府も貿易の利潤を上げるために日本情報を知りたがっており、彼はまさに意中の人であった。

彼は日本の若い学徒に西洋の臨床医学を供覧し学ばせたが、その見返りに日本の動物や植物、地理や産業についてのレポートを書かせ、実際の標本の蒐集に協力を求めた。

こうして在日5年間で蒐集した資料は、生きた日本植物2,000種類、押し葉標本12,000点と実に膨大な量となり、シーボルト事件の後、オランダに凱旋した彼は世界一の日本通としてヨーロッパ社会に迎え入れられたのである。

帰国

32歳で帰国後、彼は結婚もせず、終日博物館にいて膨大な資料整理に没頭する一方、日本に関する論文を次々と発表した。

なかでも日本植物誌(フロラ・ヤポニカ)は秀逸との評価が高い。

そこには植物の自生地,分布,生育地,栽培,学名,日本名,利用法,薬理,処方にいたるまで詳述され、見事な内容である。

三部作といわれた日本動物誌日本(風俗や習慣、気候や地理などの研究)も同様にすぐれた著作であり、博物学者の面目躍如である。

これと平行して、彼は念願であった日本の植物によるヨーロッパ庭園の改革や林業の活性化に尽力した。

時代の寵児となった彼は日本を懐かしみ、庭園に日本植物を植えて日本別荘をつくり、17年も独身を通した。

日本人妻お滝さんを都合のよい現地妻として考えていなかったという見方もできる。

しかしこのあとの彼の行動にこそ、我々は恩義を感じなければならない。

アヘン戦争

1840年、アヘン戦争のあと、彼はヨーロッパ諸国の矛先が日本に向けられているのに危機感を募らせていた。

このままでは日本は植民地にされてしまうという焦燥感から、彼は日本が鎖国をやめて開国し、外国と国交を結ぶ以外に生き残る道はないと確信する。

そして意を決してウィルレム2世(オランダ国王)に会い、日本に開国を勧める手紙をしたためてもらうよう直談判する。

独占している日本貿易の収入源を放棄することになるだけに、ウィルレム2世も悩んだに相違ないが、よくこれに応じてくれたものだと評価したい。

しかしこの好意的な行動も、あろうことか徳川幕府首脳の優柔不断で徒労に終わり、10年の後、ペリーの恫喝を招くことになる。

そのペリーである。

ペリー

このアメリカの提督は、日本攻略にあたり日本研究に1年をかけた。

このとき、幾多の報告書のなかで本当に参考になったのは、シーボルトの著作だけであったと述懐している。

シーボルトはペリーとも親交をもち、「どうか平和裏に日本開国を進めてほしい」と進言し、みずからもペリーの船に乗せてもらえないかと申し入れをしている。

彼の日本へのおもいが、いかに深かったかというエピソードである。

幸い、我が国は欧米による占領を回避しつつ開国に成功した。

中国や東南アジアの悲惨な歴史をみれば、まことに幸運の一語につきる。

実は結ばなかったが、その陰に隠れたシーボルトの努力も忘れてはなるまい。

幕末の危機を救った恩人のひとりとしても、彼を記憶にとどめたい。

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