長崎市民の誇り 永井隆


長崎名誉市民第1号となったのが故永井隆博士である。

長崎原爆投下の混乱のなかで、白血病の身で自ら頭部に大けがをしながら、被災者の看病にあたった。キリスト者として、身を捨てて隣人愛を実践した稀有の人である。

クリスチャンとなる

永井隆は島根県松江市の出身である。
長崎医科大学を卒業後、放射線医学を専攻した。学生時代パスカルの『パンセ』を愛読し、カトリックの森山家に下宿したこともあって、キリスト教に傾倒した。

昭和9年、戦地から帰還し洗礼を受けたのち、森山緑と結婚した。

白血病を発症

戦時中、フィルム不足から放射線を浴びすぎたのが主な原因で、慢性骨髄性白血病を発症した。

長崎への原爆投下2か月前に、「余命3年」と宣告された。38歳であった。

長崎へ原子爆弾投下

もともと原爆は長崎に落とす予定ではなかった。第1目標は陸軍造兵廠のある北九州小倉市であった。広島に投下されたウラン235型爆弾にくらべ、さらに1.5倍の威力をもつプルトニウム爆弾である。

ところが前日の八幡市空襲の残煙と、B−29に対する地上からの高射砲による応射で、爆弾投下のチャンスを逸した。さらに日本軍戦闘機10機が緊急発進 してきたため、急きょ第二目標の長崎市に変更となった。

長崎では雲のためB−29の発見が遅れ、対空砲火が間に合わず、かえって雲間からの爆弾投下を容易にしてしまった。

原爆投下により重症を負う

その日の朝、永井は放射線科助教授として長崎医科大学の研究室で仕事をしていた。11時すぎ、窓の外がピカっと光ったと同時に轟音と爆風で建物が崩れた。そのうち気が付いて、瓦礫の中から這い出したが、右側頭動脈切断の重傷を負っていた。

建物の窓から外を眺めると、長崎の街はことごとく廃墟に化し、大学の建物も壊滅的な状態であったが、大学病院には大けがをしたひとや熱傷、火傷の人々が次々に運び込まれてきた。

被爆者を献身的に治療

永井は自身が重体にもかかわらず、包帯で傷口を縛ったまま、第11医療隊の責任者となり、救護所を造って約2か月間、被爆者の治療にあたった。しかし、医薬品は爆風でほとんど失われており、絶望的な状況で対処療法に明け暮れたという。

あまりの緊急事態に永井はすっかり家族のことを忘れていたが、3日後あわてて自宅に戻ってみると、妻の緑は既に亡くなっていた。即死であった。幸い、疎開していた二人の子は無事であった。

また、この医療奉仕の合間に、永井は頭部の出血が止まらなくなり、一時危篤に陥ったが、奇跡的に持ち直した。
翌年、永井は長崎医大の教授となったが、白血病が増悪して長崎駅で倒れ、以後病床に伏すことになる。

世界平和を訴える

そこで彼は医学者としての人生を諦め、残された時間で原爆の悲惨さを書き残し、世界平和の実現を訴えることに余生を捧げようと決心をする。

その著作の場となったのが、浦上カトリック信者らの厚意により建てられた、わずか2畳の家「如己堂」(にょこどう)であった。
彼は二人の子とそこに住み、5年余りを病床に伏せたまま、「長崎の鐘」「この子を残して」「ロザリオの鎖」など17冊の著作に専念した。

「長崎の鐘」は原爆投下後の凄惨な被災状況、そのなかでの必死の救護活動や復興への道どりを述べ、原子力管理の必要性を強調し、2度と原爆は使用しないよう、恒久の平和実現を説いている。

「この子を残して」では、余命いくばくもない父が、幼子に「如己愛人」(己を愛する如く汝の隣人を愛せよ」という言葉を送った。そして最後の一人になっても戦争には反対しなさいと書き残した。

また、「平和塔」では、愛と勇気をもって非武装を唱え、非戦を叫ぼうと訴えた。

「乙女峠」は永井が死の直前に書き上げた力作で、長崎キリシタン配流の地である津和野における殉教者物語である。浦上4番崩れで発生した大量のキリシタンへの拷問、殉教、そして維新政府の方針転換により信仰の自由を勝ち取るまでが語られている。

彼は長崎に住むクリスチャンとして、また妻が隠れキリシタンの子孫でもあり、存命中にこのテーマはものしたいと熱望していたようである。

脱稿10日後の昭和26年5月1日、心の安寧を得て43歳で他界した。

平和活動が世界に感動を呼ぶ

永井の文筆による平和活動は、決して徒労に終わらなかった。

小さな如己堂から発信された彼の作品は世界中に大きな感動を呼び、全国各地から見舞客が絶えず、昭和24年には昭和天皇に謁見した。また海外からもヘレン・ケラー女史の訪問、ローマ教皇特使としてギルロイ枢機卿とフルステンベルク大司教の見舞いを相次いでうけ、長崎市名誉市民にも選ばれた。

彼は 著作で得た収入のほとんどを市の復興のために寄付した。また、すさんだ子供の心を慰撫しようと、小さな図書館「うちらの本箱」を設置した。

永井隆の人となり

彼は十分貧しかったが、大らかで、いつも明るかった。大病を患っていたが、常にまわりの病人を励ましていた。そして人々への感謝の気持ちを持ち続け、世話になった人には心から応えようとした。

困難な事態に直面しても諦めず、なんとかならないか冷静に摸索した。そして決めたことは、なにがあってもやり抜く強さがあった。

とても恵まれた人生とは思えないが、本人は決してそうは思っていまい。                           隣人愛を実践した見事な人生であった。

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