三島由紀夫の唯識

割腹自殺

大学4年(昭和45年)の秋、昼食をとっていると臨時ニュースが流れ、「三島由紀夫の暴挙」が報じられた。彼が楯の会の4名と陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れ、隙を突いて益田総監を人質に取り籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊員へクーデターを促す演説をした後、割腹自殺したというのである。 一瞬、2.26事件が脳裏を掠めた。

ちょうど「豊饒の海」を読みふけっていたときで、後ろからいきなり殴られたような衝撃だった。

巷は終日この話題で持ちきりだった。ただこれほどの著名人がなぜ反社会的行動をとったのかについては、報道はあえて論評しようとしなかった。

国家として自主独立せよ

彼が外界と遮断された超過保護家庭で育ったことはつとに有名だった。怪我を恐れて遠足にも行かせてもらえず、長年祖母と二人きりの生活に甘んじたという。長じて友人と散歩中、田んぼで蛙の鳴くのを聞いて何の音かいぶかしがり、友を驚かせたというエピソードがあるほどだ。

戦時中の彼の行動については、どうにも理解しがたいところがある。嘘をついてまで兵役にとられまいと抗うかと思うと、一転、天皇および皇国のために命を捨てようとしている。

ただ戦後になると、無感動な平和ボケ社会を厭い、戦時中を自由で幸福だったと懐かしむようになる。

そして、憲法第9条は「戦勝国に書かされたわび証文」であると断じ、軍備を放棄すれば「国家として死ぬ」しかないと嘆いた。そしてこのままでは、自衛隊は敗戦の十字架を負わされたままアメリカの傭兵になりさがると慨嘆し、日米安保から脱却した自主防衛を主張した。

そして死の数年前からは民兵も参加した国民防衛軍を設置すべきだとして、同志100人からなる楯の会を主宰する意気込みを示した。

東京大学に乗り込んで、20歳も若い左翼学生と激論する姿もテレビに流れ、若者の心を打った。彼はどうみても耽美的な小説家からほど遠かった。

葉隠と陽明学の実践

彼は常々「葉隠」を座右の書としていた。「葉隠」は戦時中、軍部が兵士の思想統制のために利用したのは有名だが、彼は「武士道とは死ぬことと見つけたり」、「生きるか死ぬか迷った場合は必ず死ぬ方を選べ」、「主君が間違った方へ向かおうとしたら死をもって諫言せよ」という論理に心酔し、それを実践しようとしたように思う。

ただ彼にとって主君とは、心底より忠誠を誓える偶像化した天皇であって、必ずしも現実の天皇ではない。実際、昭和天皇に対しては、2.26事件において自らを崇拝する青年将校を逆賊として処刑してしまわれたことと、天皇を神と信じて逝った特攻隊員を裏切って、戦後人間宣言されたことを嘆いた。

葉隠と並んで、陽明学もまた彼の行動原理になっていた。知行合一を念じ、非業の最期を遂げた吉田松陰や西郷隆盛にわが身を重ねていたのであろうか。

彼に言わせれば、この憲法のある限り自衛隊では国を守れない。そのため自ら自衛隊本部に出向き、隊員を扇動して大挙国会に乗り込み、占拠した後、憲法改正の発議をさせるというシナリオを頭に描いていたといわれる。

生前、彼が何度となく、「自分は文士でなく武士として死にたい」と言うのを耳にしたが、誰もがまさか本気ではないだろうと相手にしなかった。

当時は安保騒動も一件落着し、学生の関心はすでに憲法論議を離れ、平和にうつつを抜かしていたから、彼の割腹自殺に世間は瞠目した。

こんな大事件にもかかわらず、三島由紀夫人気に陰りは見えず、「金閣寺」は相変わらずよく売れた。

誰もが、まずその修辞の見事さに圧倒された。彼は美の象徴「金閣」と醜の象徴「私」を対比させ、美(金閣)の囚われの身から解放されるためには、金閣寺そのものを焼き払わなければ自由になれないとした。金閣を焼くことで、彼の内界と外界とがつながるとする論理は、まことに横暴極まりないのだが、若者の多くはその芸術至上主義に酩酊した。

三島の唯識

死の5年前「豊饒の海」に着手したとき、彼はすでに死を意識していたといわれる。この大作を書き終えたのが自決の前日であったことからも、十分それは窺い知れる。

豊饒の海とは月面にある凹みの別称である。この作品で彼は何を残そうとしたのか?

第1部「春の雪」では穢れなき純愛、第2部「奔馬」では純粋な天皇への忠誠と、一点の陰りなきいちずな情熱が語られ、第3部「暁の寺」までは、輪廻転生が繰り返される。

「暁の寺」では、理性のひとが俗物化して富と名誉を失う一方、俗人の嫉妬、見栄、嘆息がつづられ、この世で得ようとしたものは幻であるという唯識が暗示される。

そして第4部「「天人五衰」では、欲深い俗人が目論見に失敗し、服毒自殺を図ったあと天人五衰の姿となり、涅槃へ至るというものである。

そして最後の場面、門跡になった聡子に、かつての恋人を「そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか」といわせ、語り部である本多に、とうとう何もないところへ来てしまったと無常観を悟らせる。

三島由紀夫はこの作品を通して、高潔な情熱も俗人の嫉妬や見栄もすべては、意識するか否かに関わらず、阿頼耶識(あらやしき)なる深層心理が作り出す虚像であるという唯識に起因するとし、輪廻を乗り越えついには涅槃にいたる姿を描こうとしていたようである。

あの日彼の心中は、この世に実在するものなど何もないという唯識で満たされ、決然として市ヶ谷へ赴いたのかと、この歳になって彼の心根を懐かしく思ったことであった。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする