明恵の夢分析

8歳で孤児となる

頼朝が平氏打倒を掲げて伊豆で挙兵した時、8歳の少年・明恵の周りにも激変が起こった。母が病死したのに次いで、平氏の武士であった父・平重国も源氏との戦で戦死し、一朝にして天下の孤児となったのである。

鴨長明によれば、この年は大凶作で京の街にも4万人を越す餓死者が道端や河原に溢れ、牛車も通れぬほどであったと「方丈記」にある。

このような悲惨な世情のなかで、明恵は叔父を頼って仏門に入り、神護寺で修行に明け暮れた。そして約10年ののち、18歳で上覚上人より密教の秘法を伝授されるまでになった。また東大寺にも足繁く通い、華厳教・倶舎宗を学び、ついで禅宗にも通じた。しかし宗教上の難問につきあたり、次々仏教書を読みふけるうち、釈迦が残したとされる「遺教経」を発見する。

以後自分を釈迦の遺児とみなし、釈迦に一歩でも近づくため、戒律を厳守することを自らに課した。

その根底には、南都北嶺の僧侶たちの退廃した風潮や、浄土宗はじめ鎌倉新仏教に対する批判的な心情があり、自分だけは華厳経をとおして釈迦の精神を守りぬくという気迫に溢れていた。

仏道に専念するため耳をそぐ

24歳のとき、彼は思い切った行動にでる。僧侶が剃髪するのは仏道に専念するためであるのに、美しく頭をまるめ華美な衣を身にまとうのは本末転倒である。彼は仏道から外れないために自ら身をやつす必要があるとして、意を決して自分の耳をそぐという行為に及ぶ。

そして激痛ののち薄れゆく意識のなかで、彼は金色の文殊菩薩の出現に驚き感動するのである。

この事件以来、彼は自分の信仰に確信を持ち、遁世して故郷・紀州に戻り、約10年にわたって唯ひとり、経文を頼りに戒律を厳格に守り、超人的と評されるほどの修行を重ねた。同時に地元の住民に華厳の深い教えを優しく説いて、生活のなかで実践できるよう尽力した。

その噂は神護寺、東大寺にも聞こえ、33歳のとき、後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜され高山寺を開山した。以後、60歳で生涯を閉じるまで、この地で経典・真言の読誦、密教の行法、坐禅修行に励んだ。したがって新しい宗派を起こすこともなく、市井に出かけ布教することもなかったため、法然や親鸞、日蓮のように仏教史に名を残すことはなかった。

夢日記を始める

その彼が後世にその名を知らしめることになったのが、40年にわたる夢の記録である。

明恵は修行時代、密教の疑問が解けず悩んでいたとき、月に剣がささる夢を見た後、経蔵のなかで、釈迦の遺言といわれる「遺教経」を発見し、狂喜する。

そして夢は修行に絶対不可欠であると信じて、夢日記を書き記すようになった。

実際、密教では、夢を見ることが、仏国浄土を想起する観想という修行のひとつとされている。現世を消えやすい儚い夢と見立て、むしろ夢のなかに真の世界があるのではないかという考えである。

明恵にとって、夢は自分を鍛錬する場であり、夢の記は精神的葛藤の書となった。

夢分析を始める

通常、夢はとりとめもない雑夢のことが多いが、彼の場合夢の中でしばしば重要な問題が取り上げられ、しかも日を置いてその続きを見ることができたため、単にいい夢か悪い夢かという夢判断でなく、冷静にその夢を分析できたという。夢の記をみれば、それによって生きる指針を暗示されていたことがわかる。

その夢分析は、のちのユングの精神分析を彷彿とさせる。

ユングは、夢は無意識の世界が表面にあらわれたもので、そのなかには個人の経験から生まれた個人的無意識と、さらに深層に人類共通の普遍的無意識というものがあると考えた。そして夢はその普遍的無意識のなかで二つの意識の対立から生まれると考え、それを統合することが治療に結びつくと考えた。

さらに夢には、不安定になった意識状態を補正する働きがあり、ユングは患者の夢から想像できる連想や神話、昔話を話し合いながら、夢に隠された意味を考え、治療に生かしたのである。

世界史的にみても、40年の長きにわたって夢の記録を書き綴った例は稀有であり、ユングの700年も前に、独学で夢分析に取り組んでいた日本人がいたことになる。

法然の他力本願を批判

明恵は40歳のとき「催邪輪」(さいじゃりん)を書いて、法然の他力本願を非難した。しかしこの時すでに、彼はこの世にいない。

法然といえば、比叡山延暦寺という最高学府で、学問第一の秀才といわれながら、僧侶として出世の道を閉ざし、市井に入って民衆の中で教えを広めたひとである。

特権階級の人間(いわゆる善人)だけが救われるという当時の仏教界に、だれもが等しく救われる。殺生や不浄なことをせずには生きられない庶民や女性たち(いわゆる悪人)でも、ひたすら念仏して阿弥陀仏におすがりすれば、必ず救っていただけると説いた。それどころか、いわゆる悪人こそが救われるはずだという。この悪人正機説は当時の仏教者にとって驚天動地の衝撃であったが、一方で絶対他力の弱点も露呈した。

たとえ罪を犯しても必ず救ってくれるのならと、平気で悪事を働くものが後を絶たなくなったからである。無論法然の思惑ではない。

それみたことかと明恵は思ったに違いない。しかし当時の堕落した仏教界に背を向けた明恵は、ひとり黙々と修行に邁進した。極力、弟子はとらなかったが、その名声を慕って高山寺を訪れる修行僧は絶えなかったという。

明恵の座右の銘 ”あるべきように”

明恵が終生座右の銘にしていた「あるべきようは」についてである。

それは他力本願的な「あるがままに」とか「あるべきように」では決してない。

常に「あるべき姿はなにか」という問いかけを自らにおこない、その場その場で臨機応変に対応していく自力本願の気概を表している。明恵はこれを遺訓として、弟子たちに残した。

明恵と法然はまったく異なる道を歩んだが、ともに、当時の退廃的な仏教界に鮮烈な一撃を加えた点で、歴史的意義は高い。

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