西行の旅

愁眉の急 ”大仏殿復元”

69歳の西行に勧進のため奥州へ旅立ってくれと言ったのは、東大寺造営責任者の重源である。時は平安末期の1186年である。

そのころ西行は伊勢にいて、地元の神官たちに和歌の指導をしている隠者であり、当時69といえば、ほぼ寿命は終えている。

これに先立つ5年前、平清盛の5男・重衡による南都(奈良)寺院焼き打ちにより、興福寺、東大寺は僧侶など数千人を道連れに、そのほとんどが灰塵に帰した。

東大寺にとって、大仏殿復元は愁眉の急である。

とはいえすでに律令制は崩れ、聖武天皇のころのように大仏鋳造資金は容易に集まらない。

なんとか最大のスポンサーである頼朝から1000両、平泉の藤原秀郷から5000両の寄付の確約をとりつけたものの、秀郷の5000両は今だ届いていない。したがって、大仏鋳造を終え大仏の顔には鍍金(金メッキ)できたものの、首から下は素地のままである。

当時、頼朝と平泉の間には暗雲が立ち込め始めている。

頼朝にとって、平氏討伐のあと、最後の脅威は平泉の藤原氏であり、これを倒さなければ全国を統一したことにならない。なにしろ、平泉は京都に次ぐ全国第2の大都市である。

もともと頼朝が鎌倉を留守にして平氏討伐に乗りだせなかったのは、背後に平泉の軍事力の脅威を感じていたからである。

藤原秀郷としては、迫りくる来る危機にあたり、無駄な出費は避けたいのが心情だが、鎌倉を挟み撃ちにする戦略を想定すると、ここで朝廷や南都寺院との絆を深めておかねばならない。

みちのくの旅

老齢の西行に京から平泉まで出向いてくれというのは、無謀極まりない申し入れである。それを承知でどうしても西行というからには、重源の腹のなかには、勧進だけでなく、頼朝攻略に関する秘事を託したい気持ちが潜んでいたかもしれない。

もしそうだとしても、西行は首肯しなかったであろう。ただ、責任者の重源から大仏再建にどうしてもあなたの力がいると言われれば、仏教徒として純粋に心を動かされただろうことは想像に難くない。

西行は秀衡と同族関係にあり、もとは北面の武士として清盛とも入魂の間柄である。気分は自然、平氏寄りにならざるを得ない。

案の定、頼朝は鎌倉を訪れた西行を丁重にもてなしながら、奥州行きの真意を探ろうとした。

頼朝にとってみれば、朝廷と平泉が鎌倉を攻める密談の使者として西行をみるのは不自然でない。

頼朝は歌道の心得を尋ねたが、西行は一笑してこれをはぐらかし、流鏑馬などの弓馬に関する話題に終始したという(吾妻鏡)。

彼はすでに法外のひとである。その西行にきな臭い話しなどしても、せんかたないと思い直したのであろう。

翌日西行は鎌倉を発ち、徒歩行をつづけ無事平泉にたどり着いた。秀衡は高齢をおして平泉までやって来た西行に感動し、すぐに砂金を奈良に送ったという。

西行は平泉でその冬を過ごし、春を待って平泉を発ち、無事京の地を踏むことができた。

重大な任務を負った旅である。老人ひとりで行かせたとは考えにくい。しかしそれを加味しても、70の老人にとっては文字どおり決死の旅であったろう。

当時、京から奥州へは東山道という官道がある。律令時代に国の形を整えるなかで造られた五畿七道のひとつで、京を出て、近江,美濃,飛騨,信濃,上野,下野で東国に至り、陸奥に入る。陸奥は「みちのおく」が縮まって「みちのく」と呼ばれた。現在の福島、宮城、岩手、青森のほとんどを含む広大な地域である。平泉はほぼその中央に位置する。

当初は五畿七道の官道に駅(駅家)が16キロごとに造られ、各駅に備え付けの馬に乗って手紙や人の移動が行われたが、西行の平安後期には律令制が崩れ、駅は「宿」「宿場」に変身した。

また平安貴族の参詣旅行が活発になり、しばしば寺院が宿泊施設となり、のちに信者や参詣客にも「宿坊」として開放された。

西行が宿として利用したのは、こういうところであったと思われるが、予約できないため、宿場へ到着しても断られれば、野盗の襲撃に怯えながら野宿するしかなかった。

実はこれより40年以上も前に、西行は一度奥州を訪れている。尊敬する能因法師などの歌枕をたずねるのが目的だったといわれる。今回は2度目である。

当時、すでに出家して3年がたっている。所持金があったとはいえ、独り旅である。天候の不順、野盗の出現、宿や食物の確保など、心配の種は尽きなかったと思うが、それらを打ち消して余りある期待に満ちた旅であったのだろう。

西行の出家

出家する前は北面の武士であった。すなわち、鳥羽院御所の北側に詰め、上皇の身辺を警衛する職にあった。北面の武士は、朝廷に奉職する武士にとって憧れの任務である。

そのなかでも、和歌を詠み、蹴鞠にすぐれ、流鏑馬(やぶさめ)にも長けるという、あらゆる出世の条件を備えたエリートが、地位も家族も捨て、突然出家するという。

しかも特定の宗派に属して大寺院に入るのではなく、山里に庵を結び和歌を通して悟りに至ろうとしたのである。この異様といえる行為は、しばし宮中の話題を独占した。

なんといっても20すぎの若者である。若気の過ちとして現世に戻りたい思いに駆られた日々は少なくなかったであろう。しかしその誘惑を振り払うように、高野山、讃岐の善通寺、伊勢の二見浦、吉野などに庵を結び、ふたたび旅に出ては和歌を詠み続けた。漂泊の旅はじつに半世紀に及んだ。

彼の和歌は淡色、閑寂だといわれる。耽美的で技巧派の定家とは対照的ともいわれる。

確かに、悶々とする心の葛藤を素直にうたいあげているのだが、抑えの効いた気品がある。また平静を取り戻し自然を見つめるなかで生まれた歌には、作為のない素直な感動が表出されている。

津の国の難波の春は夢なれや 蘆の枯葉に風わたるなり
心なき身にもあはれはしられけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ

500年もたって、西行は宗祇や芭蕉の憧憬のひとになった。和歌ばかりでない。その生き様に憧れたのである。

西行の覚悟

71歳の西行は京都高尾の神護寺へ出かけた際、まだ18歳だった少年明恵(上人)に会って、こう語ったという。

歌は「是れ如来の真の形体なり、されば一首読み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ」。

自分にとって和歌を詠むことは、仏像を彫り上げる思い、真言を唱える思いと同じだというのである。
西行の和歌に対する並々ならぬ思いが伝わるエピソードである。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする