瀬戸磁器の祖 加藤民吉

有田焼の祖  李参平

日本初の白磁を焼いたのは陶工、李参平である。秀吉の朝鮮出兵の捕虜として来日した。17世紀初頭、有田地区の泉山に白磁鉱を発見し、ここに窯を開いて人々から「陶祖」とあがめられ、有田焼の祖となった。

柿右衛門の濁手(にごしで)

それから約半世紀ののち、この地に柿右衛門様式の磁器が登場する。
濁手(にごしで)と呼ばれる乳白色の生地に、上品な赤を基調に構図を非対称に配置する。そして余白を大きくとることによって、地色の濁手の美しさが際立つよう入念に工夫され、完成した。

丁度そのころ中国では海禁令が出され、磁器の輸出が停止した。この事情を背景に日本製磁器が注目され、オランダ東インド会社が有田焼(積み出し港の名から伊万里焼と呼ばれた)を大量に買い入れたため、中東やヨーロッパ市場は伊万里の独壇場となった。なかでも柿右衛門様式は、ヨーロッパ貴族から最高級品ともてはやされた。

しかし100年後の1684年、中国では展海令により景徳鎮窯の生産が再開され、また江戸幕府が貿易の総量規制を行ったことから、1757年に至りオランダ東インド会社への輸出は中止され、以後有田焼は国内向けにシフトしていくのである。

ところで江戸時代、2世紀にわたって磁器生産を独占した有田の窯には、鍋島藩の皿役所なる統制機関が置かれ、職人の生活を保障すると同時に、製品はすべて藩が買い取り専売制とした。
一方で、外部に技術が流出するのを恐れ、職人は外界から隔離され、一生有田の地から外で出ることは許されなかった。

加藤民吉 有田に潜入

この厳しい要塞に潜入し、有田の技術を盗み取ったのは、瀬戸の陶工加藤民吉である。
1804年、瀬戸の貧弱な製陶技術を憂える地元の衆議の結果、誰かを有田へ潜入させ技術を体得させようということになり、加藤民吉に白羽の矢がたった。
地元の期待を担って、民吉は一路有田へと出発した。

まず瀬戸の出身で天草、東向寺の住職をしている上藍天中に紹介され、窯元・上田原作のもとで修業に専念した。しかし肝心の磁器施釉法は他国人には極秘とされ、伝授されることはなかった。そこで天中のつてから長崎県北松浦郡の薬王寺住職・玄珠舜麟の好意を得、同地の陶工・福本仁左衛門のもとに弟子入りすることに成功。ここで窯入れや釉薬の調合を習得した。

そして有田焼の上絵の技法を覚えるため、危険を冒し有田皿山に潜入した。
その閉鎖社会で監視の目をすり抜けながら、民吉は築窯師・堤惣左衛門の家に住み込み丸窯の築窯法を取得、さらに丸窯の構造や還元焔の焚き方を必死で覚え込んだ。ところがその情熱が尋常でなく、まわりから不審を抱かれるようになったため、4か月後上絵は諦め、逃げるように有田をあとにした。

帰り道、事情を知って感銘をうけた天草の窯元・上田原作から、思いがけず秘伝の赤絵付けの法を伝授され、積年の思いを遂げた。
技術は盗まれる運命にあるとはいうが、盗むものは、しばしば命をすり減らすほどの激しい燃焼を強いられる。有田潜入はまことに過酷な試練であった。

民吉 瀬戸磁器の祖となる

こうして厳しい監視体制のなかで有田焼の製法を学んだ民吉は、1807年帰藩し,地元陶工へ技術の伝承に努めた。その結果、地元の人々からは「磁祖」と呼ばれ敬愛されたという。そして帰藩から17年経った1824年、 53才で長逝した。

以後瀬戸では磁器生産が急成長し、東日本を中心に急速に販路を広げていった。さらに瀬戸の技術が解放されたことで、全国の地方窯でも盛んに磁器が生産されるようになった。
こうして100年の後、瀬戸磁器は有田が独占していた日本一の座を窺うほどに興隆し、現在に至っている。

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