大久保利通の東京遷都

大政奉還という奇手

慶応3年、徳川慶喜は大政奉還という奇手をうって、薩長の出鼻をくじいた。
倒幕の密勅を得て意気盛んな大久保、西郷は、猫だましを食らったように腰が砕け、武力行使ができなくなった。
欧米列強がわが国を虎視眈々と狙っている今、大久保は焦燥の念に駆られながら、今後の戦略をどうしたものかと思案にくれていた。

無論、最大の敵は欧米列強ではあるが、国内の覇権争いも熾烈である。目下の敵は徳川氏である。実際、大政奉還したあとも、幕府の政権運営は依然として続いている。

八方ふさがりの大久保

しかも味方に取り込んだとはいえ、朝廷の公家勢力はしたたかである。何事にものらりくらりとして掴みどころがない。大政奉還されたものの自らに統治能力がないため、改革には消極的で、引き続き徳川にやらせてはどうかと言い出す始末である。これでは慶喜の思うつぼではないか。

さらには難物の主君・島津久光公がいる。穏健な家老・小松帯刀が病に伏せた今、自分が直接久光公と対峙せねばならない。ついこの間まで、薩摩では拝謁すら叶わなかったかたである。下級武士である自分が政権の中心にいることを快く思うわけがない。ひょっとすると、新政権にとってもっとも難敵は薩摩藩かもしれない。

天皇親政への道筋

しかし、天皇中心の政府をつくるうえで最も肝心なのは、明治天皇ご自身が高い見識をもたれ、藩主をはじめ国民から崇拝される存在になっていただくことである。天皇さえしっかりしていただければ、列強の攻勢も抑えられる。新政府がうまくいくかどうかは天皇の肩にかかっていると、大久保は考えた。

ところが慶応2年、孝明天皇のあとを継がれた若き天皇(のちの明治天皇)は、若干15歳、年中宮中の公家に取り囲まれ、生まれて一度も京から出たことがないという異様な環境にいる。
突然の先帝崩御のため、いまだ帝王学を学んでおられない天皇に、自分の目で世の中を見ていただき、日本を統治する絶対君主を目指していただきたい。

公家のための天皇ではなく、国民のための天皇であっていただくためには、まず実権を握る宮中勢力から天皇を引き離し、玉簾(ぎょくれん)のなかに閉じこもらず、国民の前に出ていただく必要がある。
そのためには、天皇が京を出られ遷都されることが天皇親政のスタートになると、大久保は考えた。

大阪遷都を目論む

大久保は慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いの直後、江戸攻撃を西郷に任せ、ひとり閉じこもって、大坂遷都の建白書起草に没頭した。幕府打倒も成し遂げねばならないが、宮中対策も同じくらい、のっぴきならぬ重要案件である。
じつは、大坂遷都案は大久保のオリジナルでなく、すでに筑前の志士・平野国臣、久留米の神官・真木和泉、薩摩の伊地知正治、幕臣の西周などが唱えていた。

大久保は、「数百年来一塊シタル因循ノ腐臭ヲ一新」するためとして、遷都の必要性を説いてまわったが、保守的な公家からは薩長の私権であると見なされ、一蹴されてしまった。

忸怩たる思いの大久保は遷都を諦め、せめて大坂行幸という形でなんとか宮中の許可をとり、2か月ののち実行に移した。行幸とは、天皇が大阪へ出かけるというほどの意である。遷都がならなかったのは不如意であったが、大阪行幸は、明治天皇がはじめて国民の前にその姿を現した画期的な事件となった。

その後、ほどなく江戸城が無血開城され、上野戦争も局地戦で終了したため、江戸市中は無事戦火を免れた。このため同年5月、倒幕勢力は江戸に新政府を樹立して江戸を東京と改称、この年を明治元年とした。この時期、東北は今なお戊辰戦争の只中にある。

前島密の東京遷都論に感服

一方、大阪行幸のあとも、大久保の執念は続いている。
彼は天皇が日本の統治者であることを知らしめるため、大阪行幸に引き続き、東京行幸(東幸)を目論んでいた。むろんその先には東京遷都を見据えている。
じつはこの頃幕臣・前島密が、つてがないため匿名で、大久保に「東京遷都論」を送っている。それが実に洞察に富む内容であったため、大いに大久保を感服させたのである。

それによれば、大阪は経済の中心地であり、水運にも優れ、地勢的には問題がない。しかし北海道を入れると日本の中心地は東京になる。

また江戸湾は大阪湾に比べ水深が深く、船舶の出入りに有利である。さらに東京は大阪にくらべ市街地が広く、戦火を免れたため大名屋敷をはじめ幕府の行政機関がそのまま残され、都市機能が充実している。隣の横浜には領事館もある。

これに対し、大阪は鳥羽伏見の戦いで大阪城が落城し、政府機関も一からつくらねばならない。それに大阪は経済の中心地で、遷都しなくても衰退しないが、東京は幕府でもっていたから、政治を取るとたちまち廃れてしまうというものであった。
そしてなにより、新政府の金庫は空であった。

東京行幸から東京遷都へ

大久保は戊辰戦争のつづくなか、次第に東京遷都を考えるようになった。
遷都計画には当然ながら、公卿や保守派、京都市民から反対の声が挙がった。そこで大久保は、決して遷都ではなく天皇の威光を示すためだとして、明治元年9月、総勢3300人を擁する東京行幸を実施した。

そして、先帝の三年祭と立后の礼を行なうため、年内にいったん京へ戻り、宮中および京都市民の動揺を鎮めるのに腐心した。そして翌年、戊辰戦争の終了したあと、王化が行き届かない関東以北に新政を施すためとして再度東行を実施した。これが事実上、天皇の東京遷都となった。

こうして大久保は思惑どうり、天皇を公家たちから引き離すことに成功したのである。
皇居に入った明治天皇の治世は45年に及び、大久保の願ったとうり、欧米列強の侵略は未然に防がれたのであった。

しかし、残念ながら明治11年、大久保は不平士族の襲撃をうけて暗殺され、明治の世を見終えることはかなわなかった。

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