信長の視点

信長の魅力は、周りに惑わされず、何事も自分で決するという小気味よさにある。
信玄や謙信が孫子の兵法を学ぶのを横目で見ながら、他人のやったことを見ても何の役にも立たぬ。目の前の問題に答えが用意されているわけではない。答えは俺が示してやるといわんばかりである。

才能だけで人を見る

父親が死んだ途端、多くの地侍が一斉に離反し始め、20万石あった領地が一挙に8万石となった。「おおうつけ」と揶揄される18歳が領袖では、他の大名に鞍替えされてもやむを得まい。

ところが、離反する地侍たちを尻目に、信長は武士以外の者たちに目を向けている。そして百姓から野武士、忍び、浮浪者まで、役立ちそうだとみれば採用し、身の回りに侍らせた。

いわゆる地下人(じげにん)と呼ばれる下層階級のひとびとである。彼はひとを使えるか使えないかで区別した。秀吉はその最たるものである。

木曽川の中心に勢力を張る川並衆(かわなみしゅう)もその一派で、領袖・蜂須賀小六を手に入れた信長は、他の大名のドキモを抜く戦術を展開した。
なにしろ彼らのなかには、目端の効く者が多く、決まりきった戦術しか建てられない大名に対し、地下人から得た情報をもとに、彼らの死角を集中攻撃する戦法で相手をほんろうした。
情報は現金に勝るというのが信長の信念である。

群雄割拠する地侍

ところで、戦国大名といってもその領国を実効支配しているわけではない。
多数の地侍が領国内を分割、割拠し、表向き大名に従属しているが、有利とみれば直ちに隣国大名へ寝返ること、躊躇がない。

彼らは戦国大名の傘下に入ったとしても、身の保全は自分でやらねばならない。周辺からの急襲に備え、それぞれが砦や山城を築き、あたりを窺っている。

そして領地の境界には関所を設け、自分の領地を出入りするたびに、通行税をとった。たとえば当時、淀川河口から淀までの40キロの間に670もの関所があったという。通行人はたまったものでない。

地侍を家臣団に取り込む

そこで信長は虚を突いて、自分の領国の地侍たちをすべて安土城下に呼び寄せ、家臣団に組み入れてしまった。国内の自営業者を一同に集め、一挙にサラリーマン化してしまったことになる。

そして彼らの生活を保障するかわりに、山城、関所をことごとく取り壊し、領国内の道路を整備した。これにより軍隊や物資の大量輸送が円滑となり、周辺からひとびとが自由に出入りできるようにした。

商業を規制緩和す

さらには、商人たちが商売を自由競争できるよう、徹底した規制緩和をおこなった。
それまで貴族や寺社に献金して利権をほしいままにしていた「座」の商工業者から、市場を取り上げ、自由市場とした。信長は軍事ばかりか経済までも牛耳ってしまおうと画策したのである。

その結果、安土城下には商人が溢れ、空前の活況を呈した。これによって座は崩壊し、収入源を断たれた貴族や寺社は信長を恨むこと甚だしかったという。逆に信長のもとには潤沢な資金が蓄えられていった。

南蛮貿易に乗り出す

さらに信長は、1568年、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスにキリスト教の布教を許可し、南蛮貿易に乗り出した。

国内で得られる収益は知れたものだが、貿易による利益は莫大であることを彼は熟知しており、京に上洛するや直ちに、物流の最大拠点・堺の港を押さえた。農業より商業を重視する信長の面目躍如である。

そして石見の銀、硫黄、陶磁器を輸出し、かわりに大量の鉄砲や硝石を買い入れて軍備を増強した。
こうした下準備ののち、信長は天下統一に名乗りを上げていくのである。

ルイス・フロイスはその著「日本史」のなかで、「信長は日本統一の暁には艦隊を編成し、支那の征服に乗り出そうとしていた」と述べている。
信長は南蛮人との交流で、彼らが布教を隠れ蓑に、日本の植民地化を狙っていると読んでいた。
それを知ってかフロイスも、信長のいるかぎり、とても手は出せないと観念していたようである。

信長はしたたかである。彼らの魂胆を知ったうえで、貿易を最大限利用して軍資金を蓄えるとともに、ポルトガルからもたらされる新知識を吸収した。
あるとき、イエズス会が献上した地球儀・地図に見入り、地球が丸いという説明をただ一人「理にかなっている」と言い、彼らを驚かせたという。

信長の民心掌握術

信長の戦略上、特筆すべきは、他国との合戦において略奪を一切しなかったことである。戦国期の合戦では、戦勝側は相手の領地に押し入り、無差別に略奪、暴行をするのが慣例であった。

むしろそのうま味を求めて参戦する兵が多かった。信玄も謙信も勢力を維持するために、その略奪は見て見ぬふりをした。

ただ一人信長が部下にそれをさせなかった。彼は民衆を味方につけねば天下をとれないし、維持もできないと考えていたのである。このため軍事物資を調達する際にも、必ず時価より2,3割高く買い、民心を繋ぎ止めようとした。

そして家臣団には、遺漏なきよう十分手当てをしたうえで、わずかでも略奪に及んだものには厳罰を科した。有名な秀吉の「一銭切り」も、もとは信長が始めたものといわれる。

信長の独創性

この戦国時代という激動期にあり、たったひとりで既存社会の仕組みを破壊し作り直すのに成功したという点で、信長は燦然と輝いている。おそらく史上初の快挙というべきではないか。惜しむらくは、その完成間際で落命したことである。

本願寺、比叡山など武装した宗教勢力および敵対勢力に対する信長の残虐性については、ここで論じない。
ただ、独創性という観点から信長の改革の跡を振り返ると、まことに興味が尽きない。

ただ改革は大きくなれば、それだけ流す血も多くなる。にもかかわらず信長は無防備に過ぎ、明智光秀の不意打ちに足をすくわれた。
貴族、将軍、寺社、座など、存在を否定され打ち捨てられた者の怨念が、光秀という人物を通じ、火を噴いたというべきかもしれない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする