山本権兵衛、東郷平八郎を後継指名

山本権兵衛の面構えは尋常でない。生来気性が激しく、青年時代から敵を射すくめるような鋭い視線に、相手は思わずたじろぐほどで、幾星霜を経てもその眼光に翳りはない。

信念を曲げず、口にしたことには責任をもち、潔いこと、終生変わらなかった。薩摩武士の一典型である。

16歳のとき、心酔する郷里の先輩、西郷隆盛に海軍を勧められ、海軍軍人への道へ進んだ。

海軍兵学寮(のちの海軍兵学校)時代には、実戦の経験がない教官に向かって、「実戦ではそのようなことは起こらない」と、公然と反駁した。24歳のとき、ドイツ海軍の練習艦「ヴィネタ」への乗り組みを命じられ、遠洋航海中、西南戦争の報を聞き、無念の涙を流したという。

モンツから西洋合理主義を学ぶ

ただこの航海で、山本は艦長グラフ・モンツから生涯の恩人というほどの薫陶を受けた。

モンツはドイツ貴族出身の紳士で、操船、軍事技術はもとより、政治、経済、法律さらには生活習慣、倫理観に至るまで、日本の若き学生を熱血指導した。山本の西洋合理主義はこの時、醸成されたといえる。

権兵衛、西郷従道の後継者に

その後、海軍軍人の道を歩んだ彼は、海軍大臣西郷従道に取り立てられ、日清戦争時には海軍大臣副官に抜擢された。

西郷従道は兄、隆盛が明治6年の政変で下野したとき、政府に残留したため、以後、薩摩閥の重鎮として長命を得た。実務に疎いといわれながらも、通算10年という海軍大臣を歴任した。

包容力のある人柄で敵をつくらず、藩閥勢力間の調停役に努め、政府内で存在感を示した。海軍大臣となった従道は、これはという部下を取り立てた後は、彼に権限をゆだね、その結果については自分が責を負うというやり方をとった。

権兵衛、海軍を大改革す

従道の信任を得た山本は、難物と言われた陸軍首脳を説得して、参謀本部から海軍軍令部を独立させるのに成功し、日清戦争の翌年には、海軍史上例のない大改革に取り組んだ。

じつは当時日本は、対外的にのっぴきならぬ状況にあった。

日清戦争を制したのち、我が国は西欧諸国から、あなどれない国として危険視されるようになり、このため三国干渉による強迫観念にとらわれていた。とりわけ、最大の脅威・ロシアに対抗しうる海軍に脱皮する必要に迫られ、早急な変革が求められていたのである。

ここで山本は私情を捨てて、戊辰戦争以来勲功のあった将官8人、尉佐官89人の首を切り、海軍のスタッフを西洋海軍技術を学んだ若き士官に入れ替えた。国内戦の経験しかないものでは、到底ロシアには対抗できないというのが彼の本音であった。

ただ、いきなりリストラを宣告された士官たちにとって、山本の処断はあまりに非情であった。ゆえに多くの禍根を残した。

権兵衛、東郷平八郎を後継指名

日露間の緊張が高まる明治36年、海軍大臣の山本は対露戦の海軍責任者として、常備艦隊司令長官の日高壮之丞をはずし、東郷平八郎を連合艦隊司令長官とした。

日高と山本は竹馬の友である。プライドを傷つけられた日高の憤怒と失望は察するに余りある。解任を告げられた日高は、腰の短剣を抜き、「権兵衛、これで俺を刺し殺してくれ」と号泣した。

これに対し山本は、「お前の有能は承知しているが、才に溺れる結果、司令部の命令を無視し独断専行する危険がある。東郷にはそれがない。冷静沈着でしかも強運である。」と説諭したという。

東郷は海軍幹部になったあとも、早朝から率先して甲板や便所の掃除をおこない、暴風雨となれば徹夜で警戒に当たっていた。いったん船が沈没すれば身分に関係なく全員が死亡する。死ぬも生きるも運命を共にするという固い結束がなければ、事は成就しない。

この東郷の姿勢を見て、山本は彼に後を託す決心をしたのではないか。かつて自分が西郷従道から全権を任されたように、今度は自分が東郷平八郎に全権を託したのである。

東郷、7年間イギリス留学す

その東郷である。

西郷、山本と同じ薩摩人であるが、16歳で薩英戦争に参加し、のち藩の海軍所に入所した。

戊辰戦争では薩摩藩の軍艦に乗船、砲術士官として幕府軍と戦った。

明治維新には政府軍艦の見習士官となり、明治4年、海軍の第1回留学生として7年もの間、イギリスに留学するチャンスに恵まれた。23歳の時である。

しかし、いざ行ってみると、基礎知識が乏しく、商船学校しか受け入れてくれなかった。

そこで地道に修練を積み、卒業後、帆船「ハンプシャー」に乗り込んで世界一周の遠洋航海に出かけた。この間、東郷は操船に関する知識、技術を幅広く身に着けた。

イギリスから帰国後は、「天城」や「浪速」の艦長を務め、日清戦争では黄海海戦、威海衛海戦で活躍した。かなりの危険に遭遇しながらも、東郷は不思議と負傷しなかった。

この間の東郷の采配を眺めながら、山本は東郷の律義さ、読みの深さ、行動力を感じ取っていたものとおもわれる。

日本海海戦の東郷ターン

日本海海戦の前年(明治37年)、東郷は連合艦隊司令長官に任ぜられ,日露戦争終結まで艦隊を指揮した。

じつは半年前、東郷はロシア旅順艦隊と黄海で戦い、T字戦法を試していた。

T字戦法とは、前進する敵艦隊に対し味方の船を横向きに並べると、味方は艦船前後の主砲を使えるが、敵は前の主砲しか使えないため、味方に圧倒的有利な戦法をいう。

つまり、連合艦隊が縦一列に並んだのち、同じく縦一列でこちらに向かう敵艦隊の先頭を抑えて横一列となり、Tの字を描くかたちで攻撃する戦法である。

しかし敵がこれを察知し、前進を止めて逃げてしまえばT字戦法は成り立たず、黄海海戦ではそれで失敗した。

このため、東郷はT字戦法をいったん中止し、かわりに秋山真之の敵艦隊前方に機雷を敷設する作戦に切り替えた。

ところが日本海海戦当日は、想定外の事態となった。

「本日天気晴朗なれども浪高し」の打電が示すように、機雷を敷設しようにも波が高くて出撃できず、急遽、機雷作戦は中止となったのである。

そこで東郷はバルチック艦隊に向けて南進し、敵艦隊の西側から東へ反転し、並航戦に持ち込む算段をした。ところが、部下の計測ミスにより実際には、両艦隊は真正面に向き合ってしまった。

最悪の事態を考え、敵艦隊の西に面舵をとれば、相手には逃げられる。

しかし東に取り舵をとれば、敵の進路を押さえる代わりに、味方は方向転換するまで速度を落とさざるを得ず、この間敵の集中砲撃を浴びてしまう。

東郷の決断、運命を決す

この時の東郷の決断が運命を決した。

彼は「肉を切らせて骨を断つ」覚悟で敵戦艦に肉薄し、相手が逃げられないようにしたうえで、「取り舵」を命じた。いわゆる東郷ターンである。

互いの射程距離内で1艦ずつ順次回頭させるということは、回頭のあいだ自軍からは砲撃できないため、一方的に集中砲火を浴びることを意味する。しかし無事回頭が終了すれば、逆に圧倒的有利な立場となる、究極のT字戦法である。

事実、連合艦隊が回頭を始めるや、当然のようにロシア艦隊は一斉砲撃を開始した。しかし、当日は波浪高く、艦船の揺れがひどいため、命中率が低く、絶好の機会を逸してしまった。

そのうえ両艦隊とも動いているので、なかなかTの字にはなりがたく、またそれを保持するのも容易でない。実際には速度に勝る連合艦隊が左折して敵艦の先頭を斜に圧迫し、敵艦が右折しても更に速度を上げて敵と併航し、相手の前方を抑えながらT字に近づけつつ、先頭艦を一斉に集中攻撃した。

東郷ターン、圧勝を呼ぶ

東郷が執ったこの戦術で、ロシア艦隊の主力艦38隻のうち22隻が沈没し、勝負はわずか30分で決した。バルチック艦隊の死者1万1千人に対し、連合艦隊の死者は116名という事実からも、連合艦隊の圧倒的勝利がわかる。

圧勝の原因を振り返ると、兵力は同等といわれながらも、砲撃命中率に明らかな差のあったことが判明している。じつは、東郷は過去の苦い経験から、揺れ動く艦船からの砲撃がきわめて難しいことを痛感しており、日本海海戦に備え、日夜徹底的に砲撃訓練をおこない、命中率を向上させていたのである。

これに対し、ロシアのバルチック艦隊は半年以上の船旅で、疲れ果てていた。士気も上がらず、砲撃の練習もままならなかったであろう。

一方連合艦隊には、負ければ国ごとロシアに併呑されるという悲壮感があった。戦闘の間、東郷が砲弾が乱れ飛ぶ艦橋に立ち続けたのは、ひとえに部下と身命を共にするという決意の表明であった。全員一丸となって国家の危機に立ち向かったといえる。

連合艦隊の解散式で、東郷は「勝って兜の緒を締めよ」と語り、驕るところ微塵もなかったという。要は人間同士の殺し合いである。勝ったからと言って自慢すべきものではないというのが彼の持論であった。

「アドミラル・トーゴー」と慕われる

しかし世界は彼を放置しなかった。世界最強といわれたロシアのバルチック艦隊に勝利した東郷は、奇跡の人の扱いをうけることとなった。

イギリスでは「東洋のネルソン」と呼ばれ、トルコなどロシアの脅威に怯える国々では「アドミラル・トーゴー(東郷元帥)」と呼んで崇拝した。アジアの小国が勝つなど、誰一人予想だにしていなかったからである。

常日頃、彼が語っていた言葉がある。「人間に一番大切なのは真面目ということである。少しばかりの才気など、何の役にも立たないものだ。たとえ愚直とそしられても、結局は真面目な者が成功をおさめるのだ」。

東郷は後半生、清貧な生活を貫き、昭和9年(1934年)に喉頭癌の為、89歳で他界、国葬として葬られた。

東郷は生前、乃木神社(陸軍の雄・乃木希典を祀る)建立の際に、陸軍に対抗して東郷神社を建立するという計画を聞いて驚き、絶対やめるよう懇願したという。しかし彼の死後、その意に反して、東京渋谷区と福岡県福津市に東郷神社が建立され、神として祀られることとなった。

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