子規の覚悟

「食べないと死んでしまうよ」と言って、死期の迫った人へ無理に食べさせようとする光景を散見するが、内科学の大家ハリソン先生の指摘されるごとく、「ひとは食べないから死ぬのではなく、死が迫ったから食べないのだ」というのが真相だろう。

子規の食欲

しかしなかには、死が迫っても食欲の落ちないひとがいる。
正岡子規は脊椎カリエス(結核)で、3年間も病床に伏す生活を強いられた。
にもかかわらず、彼は死の直前まで大いに食べ、食欲は衰えなかった。

終日痛みで身動きできぬまま、上を向いて過ごすのであるから、俳句以外に食べることしか頭に浮かばなくても、無理からぬことである。

胸や骨はやられても、胃腸は丈夫であるから、食欲に影響はない。とはいうものの、終日寝たきりの身で、果たして食欲は出るものだろうか?

子規の食事メニュー

子規の場合、そのメニューを見ると、健康人も及ばぬほどに多彩である。

死の前年、子規は仰むけで身動きできないという意の「仰臥漫録」なる日記をつけ始めた。
「墨汁一滴」や「病牀六尺」のように新聞に載ることのない、プライベートな日記である。

前2作は妹による口述筆記が多かったが、「仰臥漫録」は義務でないから、気分に任せて自筆で書き留めた。

内容は俳句、和歌、画に関するものから、自殺しようかと悩んだ顛末、介護してくれる妹への批判など赤裸々な告白ものがあり、人の日記を盗み見するような後ろめたさを感じる。

一方、日々の食事の献立について、不必要なまでに詳述しているのが際立っている。
たとえば、以下のごとくである。

明治34年9月2日

朝 ぬく飯四椀 あみ佃煮 はぜ佃煮 奈良漬け(西瓜)

牛乳一合ココア入り 餅菓子一個半 菓子パン 塩せんべい

午 まぐろの刺身 胡桃 奈良漬け みそ汁実はさつまいも 梨一つ

間食 葡萄 おはぎ二つ 菓子パン 塩せんべい 渋茶

夕 キャベツ巻一皿 粥三椀 八つ頭 さしみの残り 奈良漬け あみ佃煮

葡萄十三粒

明治34年9月21日

朝 ぬく飯三椀 佃煮 梅干 牛乳一合ココア入 菓子パン 塩センベイ

午 マグロノ刺身 粥二椀 奈良漬け 胡桃煮付 大根モミ 梨一ツ

間食 餅果子一、二個 菓子パン 塩煎餅 渋茶

晩 キスの魚田二尾 フキナマス二椀 奈良漬け 刺身ノ残り粥三碗 梨一ツ 葡萄一房

いくら食通とはいっても、これほど食欲旺盛だったとは、と驚きを隠せないが、彼の本心はどうだったのか?

食べられるだけ食べて体力をつけないと、結核のような消耗性疾患に負けてしまうという危機感があったかもしれない。あるいは、激痛から少しでも逃れたい一心で、食べることに神経を集中させたものであろうか。

「墨汁一滴」のなかにも、奥州行脚の時に怪しい宿で食べた酢牡蠣がうまかったので、もっと腹一杯食べたい。死ぬまでにもう一度本膳でご馳走が食べてみたいとか、西洋菓子や缶詰が欲しいと言えばすぐ目の前に山ほど出てくるといいなとか、最後に料理屋で作った仕出しを食べたいけれどお金もないから虚子から二十円借りたなど、無邪気なまでに食い道楽な一面が載せられている。

「病牀六尺」

ともかく彼は死の間際までよく食べ、よく喋った。

背中の傷の痛みに耐えかね絶叫する一方で、麻薬で痛みを抑えながら、そのスキにもりもりと食べ、頭にひらめいたことを、家族に口述筆記させるのである。異様な世界であった。

その5か月にわたる口述は、日々、「病牀六尺」として新聞「日本」に掲載され、死ぬ2日前まで続いた。子規は僅かその一点で世間とつながっており、気を奮い立たせる根拠となった。そして毎日、新聞に自分の記事が掲載されているのを確認して安堵したという。

さぞかし、悲観的な内容に満ちているだろうと考えがちだが、実は驚くほど湿気のない明るさに満ちている。

その内容は文学論議から美術論、教育論、趣味の写生や四方山話しなど多岐にわたり、衰弱していくわが身をクールに見つめながら、吹っ切れたような語り口が胸を打つ。

武士道における覚悟

正岡子規は松山藩士の家庭に生まれたが、維新で四民平等の世となり、すでに20年を経ている。

それでも彼は武家の出ということに誇りを感じ、幼少期より、「武士道における覚悟」とはいかなるものか、考え込むことが多かったという。
そして、その覚悟とは「いかなる時でも平然と死ねることだ」と結論づけていた。

しかしその後、肺結核で病床につくようになり、死期が近づくにつれ、「日頃思っていたのは間違いだった。悟りといふ事は平然と死ねることでなく、如何なる場合にも平気で生きて居ることであつた。」と述懐している。

そしてその言葉通り、平気で生きているよと言わんばかりに「病牀六尺」を書き続けた。

子規の最期

しかし病期の終わりには、麻薬を使用しないと激痛に堪えられなくなり、周囲に当たり散らしたり、将来を悲観し弱気になるものの諦めの心境にもなれず、ひとり苦悶した。

いくら悟ったつもりでも、果てしない責め苦には、誰一人泰然自若としていられるものではなかろう。それを悟りきってないなどと評するのは、もってのほかである。

死の前日にも、子規は元気に赤飯を食べ、粥も食べてレモン水を飲んだ。
しかし翌日、意識レベルが急に低下し、重湯しか咽を通らなくなった。夜になって彼は目を覚まし、コップ一杯の牛乳を飲んだ。

その後、妹と碧梧桐の介添えで「糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな」ほか2首を記し、そのまま絶命した。

生前、彼は「病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならなければ、生きていても何の面白味もない」と、空元気とも思える発言をしているが、覚悟の発言には仏教色もなく、儒教、キリスト教もない。

独自の死生観というべきであろう。

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