10万人を超す脊髄損傷患者
昨年(2021年)末に、医学界にきわめて明るいニュースが届きました。
長年、安全性を追求して来たiPS細胞の脊髄移植手術が、ついに慶応大学岡野栄之教授の手によって、現実のものとなったのです。
幸い術後の経過は良好で、国内にいる10万人を超す脊髄損傷(以後脊損と省略)の患者さんたちが固唾を飲んで見つめるなかでの朗報でした。
なにしろ脊損になれば、手足の感覚がなく動かすこともできず、排尿・排便すら思うに任せないのです。
世界初のiPS細胞移植手術
長らく、損傷した脊髄は二度と再生することはないというのが常識とされてきました。
今回、岡野教授らが取り組んだのは、iPS細胞を利用して、これを脊損箇所に移植して神経を再生させ、ふたたび手足を動かそうという画期的な取り組みです。
まず、超音波発生機器で脊損部位を確認し、顕微鏡で見ながら脊髄を包む薄い膜を切開して脊髄を露出させたのち、傷ついた部位にiPS細胞由来の細胞を移植するのです。
今まで脊損の動物を使った実験では手ごたえを得ていましたが、人の脊髄に移植したことはありません。
世界初の試みだけに、単に手足が動けばいいというものではありません。安全か否かが厳しく問われます。
移植した細胞が突然異常に増殖して腫瘍になるのではという危惧、移植した細胞が定着せずに流れ出てしまう心配、移植した細胞が周りの神経を圧迫して疼痛が発生するのではという危惧など、不安は尽きないのです。
じつに壮大な人体実験といえます。
iPS細胞から神経前駆細胞を作製
実際の手術は、全身麻酔でうつ伏せの状態になり、背中側から超音波を当てて、脊髄の傷ついた場所を確認します。顕微鏡で見ながら脊髄を包む薄い膜を切開し、脊髄を露出させ、200万個のiPS由来の神経前駆細胞を傷ついた部位に移植しました。
そもそもこの移植手術は、脊髄が傷ついて2~4週間以内に行わないと、成功しないといわれています。
iPS細胞から移植できる細胞をつくるには数か月もかかるため、本人の細胞からiPS細胞を作ろうとしても到底間に合わないのです。
やむなく他人の細胞からつくったiPS細胞をもとに、あらかじめ神経前駆細胞をつくっておき、これを冷凍保存しておいたものを用いました。
術後経過順調
手術のあとは、3か月間安全性について慎重な観察がおこなわれます。その結果、この臨床試験が安全と判断されれば、継続可能の許可がおり、2例目の移植が実施されることになっています。
先述したとおり、今回岡野教授らがおこなった移植手術は、ヒトでの有効性を確かめるのと同時に、安全に移植ができるか否かが問われているのです。
現在、経過は順調と伝えられていますが、手術担当者にとっては何か異変が発生してこないか、心中穏やかでない日々でしょう。
それとは裏腹に、本当に動かなかった手足が動き出すのかどうか、今や世界中から熱い視線が注がれているのです。